すべて,愛
カフェのねじまき時計を見ているといろんなことがフラッシュバックする。いやなこと,きついなぁと思うこと,整理できないなぁと思うことって身の回りにたくさんある。昔は「えい,頑張ろう!これをあたしがやることで誰かが快くなってくれれば」とか思って生活していた。8人家族で暮らしていたときは,「ごはんだよ」とおじいさんおばあさんに声をかけ,おじいさんの部屋からダイニングまでたった数センチの廊下をわたるためにおじいさんのスリッパをそろえる,という作業を自分に課していた。丘の上に住んでいたので雨が降って下界に降りるのは結構めんどくさかったんだけれど,「行かなきゃだめになる」と思って幼稚園や学校に通っていたものだ。
いつのころからかサボり癖がつき,あんまり人に思いやりをもてなくなった。いつも目の前に2つの選択肢が提示され,いつも「違う」方を選んできた。しっかりと本意でない方を選ぶということはそちらが本意だったのかもしれないけれど。いつもどこかにあきらめやサボりやひねくれた気持ちが作用していた。ねじまき時計を見ていると,ただレトロだと感じるだけじゃなくて,かつてのまっすぐで思いやりを持っていた私の記憶を思い出す。
最近なぜか,いろんなものにものすごく愛を感じる。いや,正確に言うと,私の中から熱い塊が出っ放しになっている。って,あまり正確じゃないか(笑)その熱い塊が出て行くとき,すべてのものに愛を注ぎたくなる。この感覚は,かつてのまっすぐで思いやりを持っていた私の記憶にもある。ずいぶん路線がずれてしまったけれど,ひょっとしたら私は,あの自分に戻りたいんじゃないんだろうか。と思う。今はいろいろ抱えるものや責任感が増えてきちゃっていて,単純で無邪気というわけには行かないかもしれないけれど。
植物を鉢に植えるとき,コーヒーの豆を挽いてドリップするとき,紅茶のゴールデンドロップを待っているとき,カフェの壁を塗っているとき,お客様と接するとき,スタッフと話すとき,樹に触れるとき,氷を割るとき,トイレを掃除しているときいろいろなタイミングで「ああ,すべては,愛だ」と感じる。だからなんだ,というわけじゃないけれど。