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June 13, 2007 アーカイブ

June 13, 2007

人の縁

 人の縁とは不思議なものだ。去年ひょんなことから出会った方から声をかけていただいて八月に北海道でライブをやることになった。去年の内にできればライブをと思っていたが、いつもの「思い描いたことが一年後に実現する」マイルール通り、出会ってから一年の時間を経てのライブである。
 よく「一人で生きている」ように見えると言われることがあるが、そんなことは全くなくて、実に様々な人に助けられ支えられてきたし今もそう。自分がどんな人間でありたいか、自分がどんな人間にはなりたくないか、それを取捨選択していくのは私自身だけれど、基本的に賢くないので、的確な選択が出来ている自信はない。そう考えると両親を始め、みんなよく見捨てずにいてくれたなぁと感謝感謝なのである。
 へらへらと生活してきたので、根本的にどうありたいのか、あまり考えずにきたかもしれない。最近それが漠然と見え始めた。そのきっかけになったのは、上記の北海道のライブに声をかけてもらったことだった。見かけや職業としてどうありたいということじゃなくて、もっとコアな部分ね。
 4月の終わりにミニアルバムを出せたことも、中身として賛否両論あるとは思うけれど、ひょんなことからアレンジャーの菊ちゃんと出会ったことが始まりだ。うむ、やっぱり人の縁とは不思議なものだ。
 ひょんなことから出会ったと書いたけれど沢山の道が既に提示されていて、私が「それ」を選んだからなんだけどね。そういう意味では偶然はありえない。みんな出会うべくして出会う人々と,なすべくして形になる音楽。
 そんな人の縁から出来上がったミニアルバムの発売記念ライブを7月13日にやります。赤城カフェで。チャージは1000円。みんな来てね。菊ちゃんはこのライブを最後にしばらく海外とかいううわさがある。ドントミスイットです。

 って、13日の金曜日ぢゃんぁぅ

啓示に満ちた日々

 奇跡的に五体満足で生まれてきたので,いや,五体満足で生まれてくることを奇跡的だと思うようになったというほうが正しいかな,五感を失ったら,と想像するだに怖い。五感が普通に機能しているかどうかという議論はおいといて,発生学的な観点から考えても,五感が少なくとも備わっているということについて,すごく感謝する。
 自分や身近な例で考えると,メニエルになると聴覚に,緑内障だと視覚に,ストレスで無味症になると味覚になんらかの影響が出る。自分が五体満足なので何を言っても偽善っぽいんだけど,わが身に起こりうることとして考えると,障害のあるヒトをどうもほおって置けなくなる。
 立て続けに視覚障害のある方に会った。私はありがたいことに視覚があるので,そのもっている視覚を代わりに役立てることに躊躇は無いが,私がそこまでご一緒します,と言ったことを彼らはどのように感じたのだろうか。中途半端に手を出すなら,初めから手を出さない方がいいのだろうか。
 彼らに会った直後にひどく自己嫌悪になり,自問自答していた。己の行為は,どこから来るものか,と。自己嫌悪の上塗りになるけれど,「自分の身に起こっていることだと想像するとやりきれないので,ほんの少しでも何かをしたかった」わけ。そこに「愛」はあったのかな。
 よくわからないけれど,「ああすればよかった(のにできなかった)」という状態にはなりたくない。たとえば「席を譲ればよかった」「誘導してあげればよかった」「優しくしてあげればよかった」「声をかけてあげたらよかった」あげつらうときりが無い。でも日々はそういうささやかな試しに満ちている。このときお前はどう行動するのか?という課題に満ちている。そう考えると,どこまで自分を投げ出せるのかという問いかけは日々常に身近にある。
 こういう視点で物事を考え始めると,私を含め世の中の大概が「自分本位」であることがわかる。私は自分本位だけれど計算高くない。というか,賢くないから計算高くなれないんだけど。「○○が欲しい」「○○して欲しい」「○○してくれて当然」「ここまでやったんだから○○してもらわないと」そんな計算,私は上手になりたくない。でも案外そういう計算で物事が成り立っていることも事実だ。
 あー。あれこれ考えていたら滅入ってきた。ねぇ,大切なのは愛なんだよ?しかもね,愛されることじゃなくて,愛すること,なんだよ。

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