明け方
キングの作品にペットセメタリーという作品がある。凍って腐った呪われた土地に死体を埋めると生き返る,という話。もちろんその話にはちゃんとオチがあって,戻ってきたそれは残忍で,凶悪で,凶暴でかつて愛して止まなかった対象では決してありえない。主人公はペットの猫を埋めた。戻ってきたそれは,恐怖をもたらすものでしかなかった。でも,主人公は学習しない。なぜなら,最愛の息子を喪ってしまったから。そして妻も・・・。
初めて読んだり観たりしたときは,なんて愚かな主人公だろうと思った。でもその気持ちが分かる。虎さんを埋めて,戻ってきたそれ,はさぞかし恐ろしいのだろう,と思うけれど,あたしは主人公よりももっと愚かなので,もし身近にあの腐って凍った呪われた土地があったらきっと埋める。
がしかし,現実はそうもいかない。実際問題あんな図体のでかい人を背負って石よりも固い土地を頑張って掘るなんてことは出来ない。もとい,そんな土地はおそらく願っても存在しない。
キングの素晴らしいところは,人の欲望がなせる愚かな業をホラーという手法を用いて描き出すところ。その愚かさというか,その欲望というのは,われわれの内にあり傍らにある。そんなバカな!と思ってもアイロニーとして「そんなバカな!」が自らに跳ね返ってくることも,計算づく。なんとも即物的な考え方でまいっちゃうんだけど,人という存在はそういうものだと,うならせる。
見ないで信じるものは幸いであるとどこぞのトマスは言われたんだけど,なかなかそうもいかない。あたしは見たところで上手く納得いかないものも沢山あるのを知っているけれど,無条件に信じられるものなど,少ないのではないかと。それはある意味勇気であり盲信であり到底あたしには真似は出来ない。
人はいろんな側面で何らかのやり方でなんとかやり過ごしたり気持ちに整理をつけたりしているんだろうけど,あたしという人間は,思考はかなり即物的であるけれど目に見えないものも信じたい,抽象世界は理解に苦しむが蠱惑的でもある,みたいな一貫していないところがあるので,逢えなくなった人に逢いたい,と思い続けていたりする。これはペットセメタリーのテーマと同じ。
肉体に,何の意味があるというのだ,と思うんだけどね。後悔とも違う,声をかけたいというのとも少し違う。逢ってどうなるというわけでもない。ただ,逢いたいと熱烈に思う。
特に,こんな夜明け。