目が覚めて
何も変わらないとおもった。おそらく明日の朝目が覚めたときも,同じように感じるだろう。唯一,明日は夕方まで寝ている権利があるというだけだ。劇的な変化を求めつつ,案外そんなものは訪れてはこないと思う。それなのに,じわりじわりと日々変化していることに気がつきはしない。ふと,あるときに白髪は増えたし,手もかさかさだし,おっぱいは離れてたれていき,顔にシミが目立つようになった,なんてことに愕然とするわけだ。
継続なんだか,不連続の点の集合なんだかよく分からないけれど,時間というのは流れているように感じられる。ちょっと不思議。同じ流れにのっていれば流れていることなど気がつきはしないだろうし,それでも「自分を置いて周りが流れていく」ように感じたり死んだ人の時間は止まってしまったように感じたりする。
自分の時間と他人の時間は流れ方は違うんだろうか?それとも,普遍的な時間の流れというのが存在するのだろうか。いずれにしても,変化を時間の差異として感覚することというのは,面白い尺度である。大抵は置いてきぼりにしたりされたりするわけなんだが。
それにしても,カフカってのは発想がすごい。ある朝目が覚めたら,どうして巨大な芋虫になっていた,なんてことを思いつくんだろうか。これはまさに劇的な変化の訪れなんだけれど,こういう形の,非日常的な,超現実的な?,つまりはウェルカムではない劇的な変化ってのは,にっちもさっちも行かなくて,本当に困ってしまうだろうと思う。うん,自他共にウェルカムではない劇的な変化というのは,嬉しくない。目が覚めたら芋虫になっていたくはない。漂流教室みたいなのも,いやだ。とかいいつつ,漂流教室は大好きだけど。
カフカ的なのも,漂流教室も,加えて言うなら安部公房的なのも,今まで敢えて認識せずとも継続してきたし継続し続けていくだろうと了解してきた自己存在の継続の危機としての,変化の訪れであったりするからとても厄介だ。しかも,その変化の訪れってのが「ありえんだろう?」と自分に問うてみても,いや,全く否定は出来ないのかも・・・もしかしたら・・・なんて疑心暗鬼が心に忍び込む余地がある。そこが,すごい。まだヘルレイザーの方が安心できる。
ところで。ヘルレイザーで出てくる鍵としての箱は,リンチのマルホランドに出てくる青い箱と似ていると思ったのはあたしだけだろうか??