中学校のときに、妙な女の子がいた。いや、えーと、逆か。あたしが変で、彼女はまぁまぁシティーガールっぽい感じで、取り立ててお美しいわけでもないけどよくもてる女の子だった。感情表現をほとんどしない子だったんだけど、卒業文集に「小学校の時に仲のよかった友達は、中学校が変わったら遠くなってしまうんだろうな、と思っていたらその通りだった」というようなことを書いていた。
それで彼女は何を伝えたかったのかな。彼女の周りには彼女の取り巻きみたいなのが何人かいて、居心地がよかったのかどうかよくわからなかった。同じく「中学校の友達も離れて遠い存在になるのだ」とやさぐれてみたかったのか、「中学校で出会った友人たちはおそらくこれからも仲良しでいる気がする」と言いたかったのか・・・。
あたしはひねくれものなので、仲良しクラブみたいなのはかなり辟易するし、そういうところからは離れたところに身をおいておきたい。なんとなくグループとして存在しなければ一人じゃ何にもできない、ってタイプの女の子にはなりたくなかったし、まぁ、なれもしなかっただろうし、いつのころからか、本当にわかってくれる友人というのがたった一人でもこの世に存在していれば、いいのではないか、と思うようになった。
今はありがたいことに、あたしが疲れているとテレパシーで感じ取ったかのようにメールをしてくれる友とか、心身ともにリセットさせてくれる友とか、遠くで(いや、遠くないのか)がんばっていてパワーを与えてくれる友とか、ほんとうにありがたい人々が精神的にそばにいてくれて涙が出る。
学校が変わって離れてしまえば終わり、という友情は、あたしにとっては友情とは呼べない。どうしても、こだわるものがあったら、離れたとしても思いやり続けるのだと思う。寄りかかりパラサイトし、あわよくば奪い合うみたいなのは、なんというか、少なくともあたしにとっての友情ではない。
今朝、ろくでもない夢を見たせいかもしれない。あたしは人間がゆるいので、たやすく人を信じてしまったりするんだけど、そのおかげで非常に手痛い思いをしてその傷を癒すのにずいぶんと時間がかかったりするときもある。人間不信になってみたりして、「一人で立ち続ける強さがほしい」と何度思ったことか。まぁ、一人で立ち続けるのは、無理ですが。
その人といることで感じる居心地の良さ、というのは友情とイコールではない。時として耳の痛いことを言い合うからこそ、おお、友よ、とか感じちゃったりする。案外、適当なことを言って居心地の良さを醸し出すのは簡単で、特に友達じゃなくてもできるんだよね。いろいろかんがえるんだけど、バロメーターとして一番簡単なのが「飯が一緒においしく食えるか」ってことかも。あとは「酔っ払ってその人の前で失態をさらせるか」とかね。あるけど(苦笑)
ほんと、形のないものなのに、友情ってありがたいよなぁ。癒されまする、とりわけ今は。