誰がために
歌を歌うことについて何度か書いたことがあるけれど、歌でも楽器でも同じなんだなぁと感じたことがある。究極では実は自分のために演奏しているんじゃないかなということ。伴奏をしてくださる方の中には,歌いやすいように、という視点で演奏してくださる方がいて、とてもありがたいなと思っている。また,何人かのピアニストの人から、歌の人は怖い、歌の伴奏は難しい、苦手だ、という話を聴いたこともある。あたしは歌を歌う立場だけれど、確かに歌の人たちは怖いと感じることがある。独特の雰囲気があるよなぁ。まぁ、フロントは個性で勝負みたいなところもなきにしもあらずだけどね・・・。でも一人で音楽成り立たせてるわけじゃないから,一緒に演奏してるプレイヤーに怖いだとか言われちゃおかしいわけですよ。逆にね,お膳立てされて歌わせてもらう状況っつーのも,やっぱり違うんじゃないかなと思う。だって,それはどちらも弾きたいように弾かずにこっちに合わせてもらっちゃってるってことなんじゃないかな・・・。
歌の技術は楽器に追いつかない,とよく言われることだし,その通りなのかもしれないんだけど,できうるならば対等で!みたいな願望もあったりする。あー,大きいこといってるなぁ・・・。願望ですよ願望。できるできないはおいといて(笑)あたしはあたしの歌がどう思われているのかなどと感じている余裕がないのだけれど,伴奏してくれるプレイヤーの人々の音やリズムを,楽しめる心の状態をキープできるようにしたいなぁ。独りよがりじゃだめなんだけど,「を,おぬしそう来るか。ならば拙者はこうだ」みたいな掛け合いは,成立したときにはとても楽しい。ちょっと支離滅裂感がありますが・・・。
ビリーホリデーを聴いている。酒と薬ですっかり変わってしまった歌声は,上手い下手というカテゴライズを超えている。でもすごい。最近気がついたことがある。歌は,上手い,ということだけでは何にもならないということ。上手いね,だからなに?みたいなね。楽器はコードとリズムの組み合わせ。歌は音と言葉とリズムの組み合わせ。でも,まぁ,これは音楽だけに限らないけれど,やっぱり要素還元論じゃないんだよね。パーツを組み合わせたら全体になるかといわれたら,そうではないのだと思うわけです。清水秀子さんや小美濃真弓さんの歌声を聴くと「うぅむ」と唸ることしかできないのですが,彼女たちだって,(いやもちろん彼女たちはむちゃくちゃ上手いが)ただ単にうまい,だけじゃない。こなれてる,自分のものにしている。そういうだけじゃなくて,なんというか・・・バーゴリラのマスター吉井さんがカクテルを作るときに「愛情」をこめているというあれに似た,そういうエッセンスみたいなものがあるわけです。たぶんそれはこれまでの生き方からにじみ出る何かだったり,その日感じた何かだったりするのかもしれない。ま,あたしはまだまだですが。