9-11
5年も経ったのですね。5年前の今日,私は実家にいて同時多発テロのニュースを知りました。信じられない光景にはじめはうまく理解ができない感じでした。たくさんの命が失われ,貿易ビルは跡形もなくなくなり,何人もの人が現場に向かい救助作業を行い,粉塵による後遺症に悩まされている人がまだまたたくさんいると聞きます。あってはならないことだと強く思います。それなのに,国際社会はいつ勃発するかわからない火種をたくさん抱えていて,経済だとかエネルギーだとか軍事だとか宗教だとかそんな問題が山積です。
人間はエゴイズムの塊で,「われわれが0から創ってきた地球ではない。」ということを忘れちゃってるみたいだ。はじめに地球があって,人類などずいぶん遅く現れた生物なのに,互いに殺しあったり憎みあったり利便性の追求ゆえに地球自体を破壊し続けたり。本当に,愚かだと思います。そんなマイナスの情熱は,なくていい。配慮と思いやりと愛を持つべき。と,世界の片隅で鼻息を荒くしてみたところで明日起きたら世の中がすべて平和に変わっているということはないのも知っているけれど,今私にできることは個人レベルであれ,配慮と,思いやりと,愛を持って生きるということ。朝ちゃんと目が覚めることができること,その日一日ご飯や水を口にすることができること,歌を歌えること,友人たちがそばにいてくれること,両親に愛されていること,すべてが本当に幸せだと思います。
目を瞑って原始地球を想像してみることがあります。隕石がぶつかって出来上がった地球という星に雷がなり(今朝みたいだ)何日間も雨が降る(ノアの箱舟の大洪水みたいだ)。栄養分の詰まったスープみたいな原始海洋が出来上がって,そこからひたすら化学反応が連鎖して起こる。ぽちりと自立的に動くことのできる何かが発生する。それがくっついたり離れたりしながら更に大きなものに変わっていく。
オパーリンという人がいて,一生懸命実験しながら原始地球でどういう風に「生命」が発生したのかを考えていました。コロイド溶液で実験してみたりして生命を机の上で作り出したかったのかな・・・まぁ,彼が唱えた『生命の誕生』論にはいささかの言葉の問題が残されていると思うけれど,命の大切さを考えるには「生命の誕生」という言葉はとてもぴったり来ると思います。
どうしてヒトが現れたのか,どうして呼吸ができるのか,われわれのこの個体はどうやって維持されているのか,不思議なことばかりです。ヒトは地球を破壊するために現れたわけではないのだと思う。ヒトは互いを損なうために現れたわけではないと思う。ある一面を考えてみる。植物が光合成をして,酸素を出してくれるからこそ,酸素呼吸というすべをわれわれの祖先が何らかのきっかけで選んだから,われわれは息をしていけるわけなのです。もっとミクロな話になったら,われわれの細胞にいる呼吸を司る細胞内小器官のミトコンドリアが細胞共生で細胞の中に存在するようになってくれたから,酸素呼吸によってわれわれの生きていくエネルギーというのは生産されるわけなのです。
話がそれたかも。つまり,私が言いたいのはもっとわれわれが存在しているという事象に目を向けるべきなんじゃないだろうか。存在しているといっても,周りとのかかわりの中で生かされているという事実に目を向けるべきなんじゃないだろうかってこと。ドライにクールに関係性をたどればたどるほど,地球とか自然とか環境とか歴史とか!そういうものにわれわれは生かされてきたのだと痛感する。だって国際問題でどたばたしても,誰一人地球に存在しなければいざこざなど起こらないわけ。よきにつけあしきにつけすべての思考も消える。理解も反目も。でも現実問題として人間はたくさん存在する。自分だけ利益を追求しようと思い始めるから,不具合が生じるわけです。そう考えていると,人間の愚かしさに情けなく悲しくなります。ええ,自分自身への反省回顧も含めて。
平和を切に願います。幸せであるように,穏やかであるように。心からの愛をこめて。