丘の上の家
私が生まれたのは海の近くの,丘の上に建つ家だった。南国ほどは暖かいとは言えないけれど,それでも北国ほどは寒くは無い。冬は池が凍るのを心待ちにし,なぜなら,スケートをしてみたかったからで,夢はかなわず乗った瞬間冷たい池に落ちた。夏は虫を取りに出かけるまでも無く虫のほうから寄ってきた。セミの羽化やカブトムシの蛹,玉虫の産卵に出会ったりして,毎日暮らしていた。二階の窓から遠くに打ち上げられる花火を見た。秋は銀杏の実を拾ってきて手がかぶれ,春は杏やタイサンボクの花を愛でた。網戸の向こうで風が寄り添い,いつの季節も遠くで灯台がチカリチカリと光っていた。
私の,すべてがここで育った。引越しをする日の祖父の顔を忘れない。夏に遊びに行ったときに祖母が怪我をしたことも。長く入院していた父親が戻ってきたときのことも,いとこたちが休みになると遊びに来たことも。成長してからも時々丘の上の家に来ては二階の部屋から海を眺めていた。すべてがここにくればリセットされる気がしていた。
この情報化社会の中で,一種隔離された空間で幼少期を過ごしたことは,私の精神構造に少なからず影響を残すのだけれど,いつか,戻れたらいいなと思い続けていた。祖母が昨年亡くなったことで,丘の上の家も売却されることになった。仕方のないことだ。ただ,すべてが決まったときに,ああ,あの家の二階から海を眺めることがなくなったのだと思った。
思い出と切なさと感傷と寂寥感と。いろんなものがゆっくりと滲みだしている。すべては時間が解決するだろう。いくら後ろを振り返ったところで,私の進む道は前にしかないのだ。