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いろいろ考えたこと アーカイブ

March 30, 2006

丁寧であること

 今日は午前中から打ち合わせで新橋に行ってきました。新橋までの行程がぎゅうぎゅうだったもので,結構へこみましたが,打ち合わせそのものが私にとってとても意味のあるものだったので,いろいろ考えました。その中のひとつ。
 情報化社会だと言われ,いろんな情報が世の中に溢れていて,どれが正しいのか,どれを選んでいいのかよくわかんなかったりする。今の日本経済の土台を作り上げてきた人たちってのは我々のお父さん世代だったりする。案外社会の仕組みは昔の人が作ったもので,その中身はすごいスピードと量で押し寄せてきて,つまりはその入れ物も中身もなんとなくしっくり来ない,って感じる人が案外いるんじゃないだろうか。波乗りの上手い人はその中でスイスイとわたっていくわけだし,適応能力も求められていくだろう。でもさ,自分の手で作ってないものや信頼感を抱くのが難しいものに対して,なかなか適応なんてできないんじゃないかな,と思う。あたし自身も,なかなか適応できずにいるし。
 だけれども,生きていくためとか,働かなければならない使命感とか,社会の一員としてとかそれぞれが個々の理由を抱えて馴染んだり馴染めなかったりしながら社会に身を置いている。方や「おーいい感じ♪」と思う人だっているだろうし,その一方で「もーだめだ」と思っている人だっているだろう。うまくいってるんだかどうかすらわからずにいる人だって。ストレスって,そういう馴染めなさ加減とかよくわからない感とかそういうものから滲み出てくるんじゃないだろうか。ストレスを認識してもつらいだろうし,認識しないであるときいきなり体が壊れたりしてもいただけない。
 世の中がとっても忙しくせわしなく動いていく中で,LOHASとかスロー何ちゃらという言葉をよく耳にする。それって,「まぁ一休みしようぜ」とか「逃げてもいいんだよ」とかそういう意味のネガティブ思考をなんとか大義名分を付けて肯定したものに響いたりする。確かに,そういうネガティブさを開き直った部分もあるんじゃないかと思うけれど,もっと大切なことがあるんじゃないかと今日の打ち合わせで思ったわけです。

 それは,「丁寧であること」。
 
 案外,当たり前のことなのに,忘れちゃっていたりする。あー丁寧であることってとっても大切だし今の世の中に足りないのは,ここだなぁと思いました。というわけで,打ち合わせを終えて帰ってきて,丁寧にお昼ご飯を作ってみた。丁寧ににんにくの香りをオリーブオイルに移して,丁寧にみじん切りしたねぎをゆっくりと炒めて,丁寧にパスタをゆでて,丁寧に明太子を加えて,明太子のクリームパスタを作りました。えへへへ。天才パスタ君はもちろんちゃんと降りてきました。そんなおち。食後には丁寧に淹れたコーヒーを飲みました。あー幸せ。 

April 8, 2006

歴史と破壊とエネルギー

 先日「丁寧であること」について書いた。読んだ方々からいくつかメッセージをいただいて,案外みんな丁寧であることについていろいろ考えていらっしゃるのだと感じた。
 推進力や,今の現状を打破するためのエネルギーとか,今をとにかく何とか生きるエネルギーとかそういうのはとても大切だ。よい悪いは別として。それは個人レベルでもそうだし,社会と言うレベルでもそうだと思う。社会というのは面白い仕組みをしていて,単に個々人の集合体ではない。エネルギーという言葉を取ってみたら,日本がエネルギッシュだった時代と言うのはやはり高度成長期で,今の日本のあり方とは全く違ったんだろうと思う。その時代を知らないのであれこれ推測でしか語れないけど。周りにも気を遣いつつ,前にも進むというのはなかなかできそうでいて,難しい。
 たとえば,公害問題。いろんな写真やビデオを目にしたり,実際調べたりすると今はたやすく公害問題について知ることができる。利潤を追求してそこから生まれた弊害によって広い範囲にわたって大きな深い傷跡を残した例である。後で振り返ると「その時点でやめればいいのに」と思えるんだけれど,イケイケのときはそれに水を差すような意見や行為というのは歓迎されないし,たいていは大きな権力によって握りつぶされたりするんじゃないかな・・・。
 歴史を振り返ると,そこからさまざまな反省が浮かび上がる。それと同時に,素晴らしさにも目が行く。私はもちろん今の日本に生きているのだから,懐古趣味的にあれこれ述べているわけじゃない。過去を振り返ってそこから学ぶという行為の必要性をもっと感じるべきなんじゃないかと思うわけです。これは日本に限らず。日本は日本の過去から学ぶだけではなく,他の国の過去や他の国の今から学ぶ必要性がある。
 人間は,とても頭がよくて,とてもおろかな生き物だ。よりよく生きるという目的のために実はとても大きなものを損なっていたりする。個人レベルでもそう。博愛主義には到底なれないけれど,自分がとった行動が今,これからにどういう影響を与えるかはわからないとしても「あ,しまったやべーな」とわかった時点で真摯に,素直にフィードバックを効かせるという行為は大切なんじゃないかな?なかなかそれができないのだが。こと社会というレベルになるとさらに難しくなる。となると会社のトップや政治のトップの素直で真摯な態度が会社や国家の未来を決めるわけですなぁ・・・。つまりは,そのトップを選ぶ我々にも責任があるわけですなぁ・・・。すごいことだ。

April 24, 2006

大切なことを見喪った夜

どんなことがあろうとも
見失ってはいけない大切なことが誰にでもあって
知らずか知ってか
みんなそれを心の奥底で大切にしている

ある人にはそれが人と人とのつながりであったり
またある人には明日食べる糧を得る何かだったりする
ある人には家族であったり
またある人にはリセットする通勤途中のコーヒーだったりする

最近あたしは
上手く説明できないけれど
そういったあたしにとって大切なものを見失っていた気がする
それはすごく簡単な見かけで
でも喪ったら二度と戻らない何かだった
いろんな人がやってきて
いろんなことを囁いていった

見ている振りをして
聞いている振りをして
心の目を閉じて
心の耳を閉じて

次目をあけたとき
何かが損なわれ喪われたのをはっきりと感じた

それでも

Keep on singing
たとえ全てを喪ったとしても
たとえ声が出なくても

ぽっかりと空いた隙間に満ちるのは音

May 16, 2006

パラダイムの変換とか。

 人というのは,どんな形であれ表現者なんだと,思う。歌を歌ったり楽器を奏でたり演じたり,というのでなくとも,自分の感情を表現するとか,ただその日の生活を送るとかどんな形においても少なからず表現している何かはある,と言う意味においては,全ての人が表現者である。
 どんな手段をとるか,というのはその人なりの選択肢としてあるし,表現しているとか表現したいとかそういう内容的なことも個人に依存する。意図して表現しているような場合,つまりはあたしのように歌を歌うという表現方法を敢えて選んでいる場合,そのための修練は必要なわけで・・・。
 最近思い返していた。横須賀の丘の上に住んでいたとき,あたしはひとりでよく歌を歌ったり絵を描いたり文章を書いたりしていた。開けた土地の中にある微妙に閉鎖された空間に生活していたので,そこだけで世界が完結していたから,その中でできることをやっていただけなのだけれど,あのときの体験が今のあたしを形作っているのだと。
 普通に生活できないものかと会社員をやってみたりしていたけれど,どうもしっくりこない。やめて歌を歌い始めてみたら,あたしらしいけれど,いろんな問題があからさまになった。たとえば自分の精神的な甘さとか。
 今まで適当に生活してきて適当にこなしてこれたので,なんとなく必要とされている気になって生きてきたのだなぁと思った。歌を歌う作業と言うのは,必要とされるとか必要とされないとかそういう価値基準にない。常に今ある自分の状況とフィードバックして自分の今の状態が果たして自分で是なのか否なのか考えるという判断基準にシフトした。
 でもでも,考えたら「みんな表現者なんだ」ということに気がついて,そうなると,みんな「常に今ある自分の状況とフィードバックして自分の今の状態が果たして自分で是なのか否なのか考えるという判断基準」で生活しているともいえるわけね。そう思ったら,周りの人がすごいなぁと思えた。みんな,すごいよねぇ・・・。今までは人は人,あたしはあたし,みたいな感覚で人のこととかあんまり考えなかったかも。
 あわせて最近変わったことは,直感のセンサーがオンになっていることが多いことかなぁ。外側からはあんまりわかんないかもしれないけれど,ひそかにパラダイムシフトが進行しているみたい。直感センサーでいろんな物事を感じ取っていると,ダイレクトでシンプルだし感じ取り方の振幅が大きい。そのせいで緻密な考え方がちょっと苦手になった気がするけど・・・考えたらもともと緻密な考え方は出来ていると思っただけで,そんなに得意じゃなかったかも・・・ってことは,自分の得手不得手をちゃんと認識するようになっただけってことなのか・・・。むーん。

June 5, 2006

世界環境Day

 今日6月5日は世界環境Dayだそうです。我々が生きている地球という空間は、思いを馳せれば時としてずいぶん広くて、だけれど、無限ではないということを考えなければならないと思います。
 日々生活している我々は、日常を生きていく視点と同時に、現時点だけでなくこの地球が我々の子孫が生活する環境であることに目を向けるべきなのかもしれません。地球が損なわれることを防ぐ手段は我々一人ひとりの意識のあり方なのだと思います。また、意識の持ちようを後世に伝えるという責任があるような気がする。
 毎日カフェで緑がどんどん大きくなっていくのを見て、自然のすばらしさを感じます。やはり、我々は自然や我々を取り囲む環境の中で生きているので、もし今私がテラスに座って風が気持ちいいなぁ、きれいな緑だなぁと思いながら寛ぐことが叶わないとしたら、とっても悲しいなと思います。私の生まれ故郷の海が汚れてひどい臭いを放ち始めたら、私は心が引き裂かれるような思いになるかもしれない。
 人間は善かれ悪しかれ、とてもパワフルなので、自然をも凌駕しているような気持ちになりがちです。でも、たとえば、カフェでコーヒーを淹れているときに地震がきたりすると、古い建物だということも手伝ってかなり怖いです。地震に限らず、台風や大雨、旱魃のニュースに触れるとき、自然て、すごい力を持っているなぁと思います。到底、敵わない。
 人が生きて生活していくことは、地球環境を損なう側面や危険性を必ず持ち合わせているけれど、それを必要最小限にとどめることはできると思います。高度成長期を調べると、確かにあのころから日本は経済力をつけていくわけですが、同時に公害問題・環境問題などが勃発しました。よい面と悪い面を歴史から学ぶという姿勢も大切だなと思ったりします。
 自然と我々は対峙するものではなくて、共存しあうべきなのだと強く思う。今の世の中全体の流れは、対峙する姿勢のほうが強いような気がします。共存するって自然に対して思いやりを持つって事だったりするのかもしれない。既に我々が損なってしまったものに対して、反省して、次はやらない、って思うこと、それだってとっても大切な意識の持ちようなんじゃないだろうか?難しいけどね。 

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June 8, 2006

ダイオキシンと生ごみ

 昨日の夜に,誰かのブログを読んでいて生ごみを燃やすとダイオキシンが発生みたいな事が書いてあった。「そうか,じゃぁ明日の朝は生ごみを減らすべく,セロリの葉っぱを炒めて食べよう。」と思って,実際目が覚めてから,その通りにしたんだけれど,作っている最中で,ほんとかな?と思い始めた。
 いやいや,調べてみると,正確に言うと焼却炉でごみをもやすとき,塩素を含む物質が不完全燃焼したときにダイオキシンが発生するとか。何を燃やしてもダイオキシンが発生するわけじゃないんだね。でも,生ごみを減らすように,食品の廃棄率を減らすという心がけはあってしかるべきなので,ダイオキシンを減らすためではなかったけれど,よしとした。
 昔横須賀の丘の上に住んでいたとき,生ごみは「裏庭に穴を掘って埋めるもの」「いつか土に還るもの」「茗荷が大きく育つために必要なもの」という認識だった。生ごみを捨てるという母親の後ろを赤い長靴を履いてくっついて歩いて,埋めた後にかぶせた土の上からぴょんぴょんと踏んで固めるという作業がとてもすきだった。今は生ごみも焼却されるわけで,案外気にせずポイポイと捨てる。ちゃんと土から出てきたものはほんとは全部食べられるはずなんだろうが。かつては廃棄率の計算とか趣味でしてたけど,いまはしない。
 便利な世の中になる。流れがスピーディーになる。すごい,万歳!と言うわけにはいかんのだね。利便性を追求すると,その弊害がちゃんと待ってる。すごい大きな視点での作用反作用。星新一の作品に何でも投げ込んでオッケーな穴の話があるんだけど,あれはすごくいろんな示唆を含むすごい作品だと思う。何でも投げ込んでオッケーだと解ると不法投棄が始まって,核爆弾とかまで捨てちゃうんだった気がする。でも,あるとき一番最初にボールかなんかを間違えて穴に落とした人の上に,落としたボールそのものが降ってきて・・・後は推して知るべし,と言う話です。題名は忘れた。しかもこの作品の話はどっかで書いた気がする。世にも奇妙な物語?だっけ?でも映像化されてた。確か長さんが出てた。違ったかな?
 ダイオキシンの話を考え始めると,レイチェルカーソンの沈黙の春を思い出す。
沈黙の春
沈黙の春
 これは生体濃縮について書かれた本だと解釈していいと思う。最初はサスペンスだと思って読んだ人が沢山いたらしく,非難ごうごうだったみたいだけど。確かにライトな読み物じゃないし,すごく考えさせられるし,問題提起本なんだけど,読んでしかるべき本だと思っている。ちなみに,この本についてもどっかでかきましたね。
 日本では有吉佐和子の複合汚染かな。大学の先輩だった気がする。
複合汚染
複合汚染

 ちなみに,セロリの葉っぱを炒めたものは,とても美味しかったです。

September 7, 2006

これでいいのか

 海に行かずに,夏が終わる。これでいいのか??ボードにも乗らず,潜りもせず,泳ぎもせず,焼きもせず,BBQもせず,夏が終わる。花火だってしてない。うわーん。夏を満喫せずに,すごした気がする。とおもってたけど,毎日毎日Akagi Cafeにいて日々の移り変わりを自然が教えてくれたな・・・。それって大人になったらなかなか感じ得ないありがたいことかも。
 

September 20, 2006

懐かしい響き

 Akagi Cafeの改装作業をしていて,昔懐かしいねじ巻き時計を取り付けた。作業をしているときは作業に気をとられていたから気がつかなかったけれど,今日カフェに行ってコーヒーを淹れていたら時計が鳴った。
 私が生まれた横須賀の家では,柱の時計のねじを巻くのは祖父の日課だった。まず夕飯が済むと柱の下にいすを持っていって,時計の扉を開けて右の穴にねじ巻きを差し込んで数回,左の穴にねじ巻きを差し込んで数回。祖父は几帳面な人だったのでまく回数も決まっていたのだけれど,1,2・・・と数えながら巻いていたのだけ記憶していて具体的に何回だったのかは忘れてしまった。そのおかげで,家中寝静まっていようとなんだろうとかまわず巻かれた時計は時を告げた。大きくなってから深夜にその音によくびっくりさせられた。
 祖父がなくなってからは時計は振り子を止め,進むこともやめてしまった。カフェの時計の音を聞くまで,ずいぶん長いことその祖父の日課を忘れていたし,そのころの自分についても思い出すことがなかった。
 今日は16日から続く赤城神社の例大祭の本祭りで,つまり神社の神事だったのだけれど,朝カフェについたら舞台の上でお囃子の演奏をしていた。それにしても篠笛がものすごく美しい音色で響いていた。その音色に母方の祖父が時々吹いてくれた篠笛のことを思い出した。その形見の篠笛は今では私の家にある。いつか吹きたいと思っているのだけれど。
 今日は懐かしい音が響く日だった。猛烈に懐かしくなり,猛烈に祖父たちに逢いたくなった。

September 26, 2006

田中正造

 日本の政治家は,本当に彼を見習ってほしい。最近どうしたら周りの人を巻き込んでハッピーになれるか,ということについてよく考える。たぶんハッピーってのは自分ひとりがハッピーであるよりも周りをできるだけ大規模に巻き込んでみんなでハッピーになっちゃうってのがいい感じだと思う。政治だってそうじゃないかな?できる限り多くの人たちがハッピーで頑張れる状況を作り出すために政治家が国をよくするために頑張る,というシステム。素敵じゃん!だけど,そんなシステム今本当に機能してるんだろうか??
 田中正造は,足尾銅山の鉱毒問題についてずっと訴え続けていた人。亡くなったとき身なりはすごくぼろぼろで,荷物に聖書ぐらいしか入ってなかったらしい。正しいことを訴えるためにすべてを注ぎ込んだ人という印象がある。彼のような生き様を実行できる政治家が日本に何人いるんだろう。彼はある側面とっても過激だったかもしれないけれど,いい人間だと思う。訴え続けたことに私は間違いはなかったと感じる。今の日本の政治家の中で,「ああ,この人いい人だ,彼の言うことは器用不器用にかかわらずとても心に訴えかける」と共感を抱くことのできる人っているだろうか?どうも国会で野次を飛ばすか,発言もせずに居眠りをしていてもすごい額の給料が入る。運転手つきのえらそうな車に乗る。秘書を何人も抱えて悪いことをしたら尻尾きりに使う。そんな人たちばっかりみたい。その給料,誰が払ってるか知ってる??
 日本の政治家は本当に日本のことを考えているんだろうか?日本の国のことを考えているというよりも,考えている振りをして実は自分の懐について考えていたりする人が多いんじゃないだろうか?安部さんに期待したいけど・・・どうなのかなぁ??

September 28, 2006

すべて,愛

 カフェのねじまき時計を見ているといろんなことがフラッシュバックする。いやなこと,きついなぁと思うこと,整理できないなぁと思うことって身の回りにたくさんある。昔は「えい,頑張ろう!これをあたしがやることで誰かが快くなってくれれば」とか思って生活していた。8人家族で暮らしていたときは,「ごはんだよ」とおじいさんおばあさんに声をかけ,おじいさんの部屋からダイニングまでたった数センチの廊下をわたるためにおじいさんのスリッパをそろえる,という作業を自分に課していた。丘の上に住んでいたので雨が降って下界に降りるのは結構めんどくさかったんだけれど,「行かなきゃだめになる」と思って幼稚園や学校に通っていたものだ。
 いつのころからかサボり癖がつき,あんまり人に思いやりをもてなくなった。いつも目の前に2つの選択肢が提示され,いつも「違う」方を選んできた。しっかりと本意でない方を選ぶということはそちらが本意だったのかもしれないけれど。いつもどこかにあきらめやサボりやひねくれた気持ちが作用していた。ねじまき時計を見ていると,ただレトロだと感じるだけじゃなくて,かつてのまっすぐで思いやりを持っていた私の記憶を思い出す。
 最近なぜか,いろんなものにものすごく愛を感じる。いや,正確に言うと,私の中から熱い塊が出っ放しになっている。って,あまり正確じゃないか(笑)その熱い塊が出て行くとき,すべてのものに愛を注ぎたくなる。この感覚は,かつてのまっすぐで思いやりを持っていた私の記憶にもある。ずいぶん路線がずれてしまったけれど,ひょっとしたら私は,あの自分に戻りたいんじゃないんだろうか。と思う。今はいろいろ抱えるものや責任感が増えてきちゃっていて,単純で無邪気というわけには行かないかもしれないけれど。
 植物を鉢に植えるとき,コーヒーの豆を挽いてドリップするとき,紅茶のゴールデンドロップを待っているとき,カフェの壁を塗っているとき,お客様と接するとき,スタッフと話すとき,樹に触れるとき,氷を割るとき,トイレを掃除しているときいろいろなタイミングで「ああ,すべては,愛だ」と感じる。だからなんだ,というわけじゃないけれど。

October 4, 2006

はとサブレー

 先日かこちゃんが鳩サブレーを数枚くれた。昔から大好きなお菓子のひとつ。昔は鳩サブレーをひとつ食べちゃうとおなかがいっぱいでご飯が食べられなくなっていたらしい。だから4人の兄弟で分けて食べていたのだけれど,いつか1枚丸々食べるのが夢だった。
 分けて食べるってことは必然的に鳩を割るわけで,割るときにうわーはとがこっち見てるとか割られた後に,はとのどこを食べたらよいかとかもう悩みまくりだった。今はかこちゃんも1枚丸々食べさせてくれるどころか何枚も分けてくれたりするのだけれど,すごく懐かしい味がするし,実際とてもシンプルでおいしいお菓子だと思う。本当は鳩サブレーだけじゃなくていろんなお菓子作ってるはず・・・。と,調べてみたらありましたありました。なんと時代は日進月歩ですな。ネットショッピングまでできちゃうの!危険だー買っちゃいそうだー。
 鳩サブレーのおもひで,とかいう作文集を作ればいいのに。絶対応募する。

October 19, 2006

あーびっくりした

 パソコンがおかしくなって入院しました。パソコン関係そんなに弱くないと思っていたのだけれど,今は家にパソコンが1台しかないし,ネットワークを組んでいるわけでもないし,セーフモードで立ち上げようと思ってもそれもできない状況だったので,久しぶりにパソコンが使えないという生活をしてました。
 まぁなきゃないで何とかなるだろうと思ってたのだけれど,そういうときに限って,ああ,あのパソコンにしか入ってないデータを見ないと仕事ができないんだよ,といった問い合わせが沢山。普段の行いだなぁと反省したりしました。レコーディングに使うための音源もPCに入れっぱなし,まめにバックアップとらないとだめですね・・・苦笑。
 それでも無事また新たにレコーディングが進んだし,ミニアルバムですが,いい感じに仕上がってきている予感がします。今から楽しみです。わーい

October 20, 2006

すべての事柄は必然である

 最近自然にそう思うようになった。夢多かりし(いや,今も多いけどさ)時代にとある会話で両親と話していたとき,「○○ってすごい,なんて偶然だ!」って感激して喜んでたら,父親が「偶然なんてない,すべて決まってるんだよ」って言った。そのときはなんだか喜んでいた気持ちに水をさされたようで憮然としたものだけれど,それから十数年経った今,すべて決まっているといった考え方にシフトしていることに気がついた。
 ただ,この必然という言葉が当てはまるのかどうかはわからなくて,私というキャンバスがあってそこにどんなパーツをどんな風に配置するかを選ぶ選び方は私という個に依存する,と思う。パーツとキャンバスは誰が準備したというわけではなくて,ここにある(のが決まっている)。つまり,今日この服を着て,今日この場所を歩き,今日こんなことをやった自分の選び方がトリガーになって周りのことがその選択にあるべき形でリンクしていくような気がする。
 そう考えていたら,そのパーツやパーツの配置の選択の仕方で私は自分の進路を決めていることになる。「ああ,今日はよい日だった」「ああ今日はこんな素晴らしい人たちに会えて幸せだった」そう思うのは,つまり自分に依存するわけね。今までは「ああ,今日は(偶然にも)よい日だった」「ああ今日はこんな素晴らしい人たちに(偶然にも)会えて幸せだった」と思っていた。その偶然だと感じていたすべては自分が引き起こしていることならば,一瞬一瞬をもっと慎重に大切に扱わなければならないと,否,扱うというかその選択が自分から滲み出すものだとしたら,もっと慎重に大切に生きていかなければならないことになる。
 自分を大切にするということにあまり重きを置いてこなかったので,こういう考え方にたどり着いてしまったことに正直少なからず戸惑いを感じているのだけれど,ベランダの植物を見るに「土壌がよくなければよい花が咲かないしおいしい実もつかない」わけ。よい花が咲いたりおいしい実がついたりするとそれを愛でたり食べたりする人々はすごく幸せになる。私は私にかかわるすべての人が幸せになればいいと思うけれど,私を介して幸せになるのであれば,私という土壌をちゃんとせずに,果たして私にかかわる人々は幸せになるのだろうか?
 うーん,何がいいたいのかわからなくなってきた・・・要するに,you gotta moveってことかな。準備するのも自分,動くのも自分,ちゃんとしてたら回りを巻き込んでみんな幸せになれるはずだ,ということだ。そうだそうだ。今日もみんなが幸せでありますように。

October 30, 2006

時が経つのは早いもので

 また今年も祖父の命日がきた。実家に母親の誕生日プレゼントを届けに行き,その帰りに日付が変わった。今静かに思い出が滲みだしている。実にいろんなことをいろんな時に教えてくれた。そしてとても寂しがり屋で愛情の深い人だった。生きていたときはその日が来ることにいつもいつも怯えていた。亡くなってからは案の定祖父がいなくなったことにどうにもうまくなじめずにいる。でも,ひとつだけ生きているときから変わらない事柄に気がついた。祖父の愛はとてつもなく大きくて,色あせもせず損なわれもしない,とういこと。

November 9, 2006

あなたは一体・・・

 ちょいとわけあって新宿区役所へ。新宿三丁目の駅を降りて久しぶりに来る新宿にびびる。こえーよー。ひとがいっぱいじゃん。花園饅頭の看板を眺めながら,おいしいのよねこれ・・・と思いつつ庁舎へ。案外すんなりと用事が終わって帰ろうとした。花園神社の前。かつてよく通っていたバーがあったのでこの辺りはむしろ懐かしい。ふーん,なんだか工事だらけジャン,と思いつつ,人ごみにもまれて新宿駅まで歩こうとしたとの時,沢山の人がいた中で私を選んで声を掛けてきた車椅子の人がいた。
 「すみません,すみません」とその人。「はい,なんでしょう」と私。普通に歩いているとわからないぐらいに花園神社の前の道は上り坂。「押していただけますか,そこの信号まで」と言うのでそこの信号なるところまで押していきました。信号にたどり着いたので「本当にここまででよいのですか?」とたずねると,「ではあそこの車のあたりまで」とその人。「わかりました」といいながら前方に止まっている車のところまで押した。「ここでよいのですか?」ときくとうんうん,といまいちはっきりしない返事が帰ってきた。いいのかな,と少し心配な気持ちもあったけれど,そこでその人と別れて新宿駅へ向かった・・・はずが,なれた道なのに,しかもそんなに遠くないのに,迷ってしまった。というか,ぐるぐると同じところを行ったり来たりしたような感じになった。そのとき,「ああ,あの車椅子の人は,もう少し押してほしかったんだ」とわかった。もう少し押してあげたらよかった。でももう反省しても遅い。今度会ったら新宿駅ぐらいまでなら押すから言ってほしいものだ。
 さて,そんなことを考えながら家に帰る途中でいきつけの(笑)スーパーによった。大根が安かったからおでんを作ることにした。桂剥きした大根の皮や面取りした大根の細切りのぶぶんがもったいないので味噌汁を作った。おでんを作るといっても今日食べるわけではないから今日の夕飯は秋刀魚を焼いた。そしていつものように雑穀ごはん。ついでに水菜と油揚げの煮びたしを作ろうと思ったら水菜にナメクジがくっついていた。危うく料理しちゃうところだった。あまり気持ちのよいものではないので他にもくっついていないか探した。水菜を掻き分けて小さなナメクジを探すというのは,どうにも他のサルの背中の蚤を取っているような気分になる。どちらもあまりやりたくない。でもナメクジも食べたくない。分け入っても分け入っても深い山,みたいな気分でした。なにしろ水菜いくつかに切っちゃった後だったもので・・・はぁ。おそらくもうこれでいないだろうと思い込むことにして,煮浸しを。秋っぽい夕飯になりました。
 そして小さな片手なべでおでんを煮ていたのだけれど,ご飯を食べ終わるころに,片手なべの途中から!おでんのだしが染み出て焦げ付いていることを発見。具が沢山になっちゃったから吹き零れたかなとめがねを掛けて確かめたらなんと・・・片手なべの取っ手のビスが緩んでそこから出汁が流れ出て焦げ付いていることが判明。でもこのビスプラスでもマイナスでもなんでもない・・・これはどうしたものかなぁ・・・お気に入りのなべなんだが・・・ま,無事おでんが出来たら問題ないってことで。明日はさぞかしいい味が出てるんだろうなぁ。楽しみ楽しみ。

November 13, 2006

本当に,一人の力はちっぽけで

 実は私は非常にせっかちで短気な側面を持ついい加減でぐーたらで大体においてゆるい人間である。とまぁ,これだけ読めばわかるように,ひどい人間である。集団生活における協調性や他人に対する思いやりや社会適応性ならびに人にささやかな幸せを与えるだろう愛嬌のようなものはかなり欠如している。それで開き直って生きていけるかというとそうでもないので,振りをしてごまかすことにしている。昔スパイラルパーマを掛けていたり髪の毛の色を変えていたりした時期が長かったので,真っ黒にしてストレートにする,といったらそれまで私の髪の毛をケアしてくれていた美容師さんが「どうしたんですか,えせ清純派,みたいな感じじゃないですか」といった。「えせでも続けりゃえせじゃなくなるでしょ」「そうですよね」と不毛な会話をしたような記憶がある。
 今同じ原理で協調性のある振り,社会適応性が微妙にある振り,時々愛嬌のある振り,をして振りも続けりゃ本物に!というわけである。まぁなかなか本物への道は遠いのだけれど,一番隠し通せないのが「短気」の部分であることに気がついた。怒っていると顔にその表情が出ちゃうわけね。
今日は非常に不愉快な出来事が起こった。ちゅどーん。それでも,私側に非があるのではないかとずいぶんと考えたけれど,いや,やはり,解せない。感情を沈めようとあれこれ立ち働いてみたけれど,顔にでちゃうんですね。怒っても顔にそれが出ない人,もしくは,もともと怒らない人,になりたいと切に思いました。
 そういうときに限って,もう雨もやりも降ってくる,おまけに強風も!みたいな状況が複合して起こり,こんな山は越えられないよ・・・と,とほほな気分になったりしてね。がしかし,そんな気分のときでも,ありがたい助けの手を差し伸べてくれるありがたいスタッフたちがいて,心が温かくなりました。そのころには,たぶん怒りの表情もなくなってたかもなぁ・・・反省。感謝。明日も頑張ろう。。。

November 23, 2006

ナニモノかになりたい

 大学院のときに「視聴覚教育」についての講義を取っていた。専門外だけどね。その前の年に受講した後輩が面白かったと言っていたので,なんとなく聴きにいき,面白かったので受講することにした。効率のよいプレゼンの仕方とか,カメラワークとか。後なんだっけ・・・わすれたが・・・。大学に在籍していた中で一番ちゃんと聞いた講義のひとつだったと思う。私は写真を撮るのも撮られるのも実に苦手なのだが構図について教えてもらったときは,おーこんな風にして写真を撮ったらいいのか,と思ってカメラ片手にあちこち撮った。プレゼンの作り方についてはいまだに参考にしている。
 あるとき講義の質問をしにいって,その先生と話していたら「あなた,何になりたいの?」と言われた。「よくわかりません」と答えた。「夢とか,ないわけ?」「さしてありません」そのときは,本当に明確に「就職したい」とか「何々になりたい」という目的もなく,自分のこの先についてあまりの不透明さにほとほとあきれていた。
 学部を卒業した同期の子は就職したりして,はたまた大学院に進学した子はさらに勉強をして他の大学を受験したりすることを狙ったりして,まぁなんというか,行く先について結構ちゃんとしてた気がする。私は,就職したい気持ちもなく,自分が哲学をこれ以上続けることについては熱意が持たなくなっていて,モラトリアムループみたいなものに入り込んでいたかもしれない。そのとき,「何になりたいわけではないけれど,ナニモノかになりたい」と思っていた。そのときの先生の質問には,非常に曖昧な感じにしか答えられなかったけれど,今もこの気持ちは変わらなくて,私は「ナニモノか」になりたい。
 数ヶ月前のこと,友人と話をしていて「いろいろあるかもしれないけれど,あなたは歌を選んでよかったね」と言ってくれた。その友人は10年前はやりたいことだらけでひとつに絞れない私を見て,この人はどうなるんだろう,と思っていたそうだ。もっとシンプルに,もっとストイックに,過ごしたらいいのかもしれない,と最近思う。

November 26, 2006

同じ野菜の値段の差

 今日はキャベツとナスのペペロンチーノパスタを作ったのだけれど,仕上げにベランダのバジルとイタリアンパセリを入れた。にんにくは青森県産で唐辛子は親戚のおじさんが作ってくれたもの。ちなみにキャベツは群馬産でナスは栃木だったかな?忘れたが国産。正直,国産の素材は,高い。同じ野菜なのになんで国産だと高いんだろう。しかも,行きつけのスーパーには無農薬野菜だとか有機野菜だとかそういうコーナーがあえてしつらえてある。そして同じ野菜なのに,無農薬とか有機とかそういうフレーズが付くと値段がさらに高くなる。
 ちょっと前に同じ野菜の値段の差って,何なんだろうと考えた。一番安い野菜はたいてい中国産である。中国産の野菜はどうして安いのか。そこで思い出したのが・・・その親戚のおじさんから唐辛子を山のようにもらったときうちのかこちゃんも一緒にいて「ひとつかみちょうだい」といって唐辛子を持っていった。持って行くときに中国産の唐辛子が使えないから,と言っていたのだ。何で?とたずねると父親が中国産の農作物の農薬の量は半端じゃない!!!と言って中国産の農作物を食材にしないでくれ,と頼んだそうな。ちょっと前の狂牛病のときは売られているコンソメにビーフエキスとか牛骨粉とか記載されているものは絶対使わないでくれ,と頼んだそうだけど,まぁ要するに口にするものの安全性を確保したいとういことらしかった。ってことは,同じ野菜の値段の差は使われている農薬の量ということになるのかね?などと考え始めたらちょっと怖くなったので最近は(ってもう遅いか)素材はなるべく無農薬のものを手に入れようと心がけるようになった。
 農薬というのは,もちろんばっちり生態濃縮されるから,えーと,生態濃縮は生態系の捕食の頂上にいる生物に向かうにつれ農薬の濃縮の度合いが増すので,農薬付けの野菜とか薬付けの肉とか,もちろんなんかに汚染された海で取れた海産物などを口にするとどんどん体の中に蓄積されるわけ。後の世代へ影響も出よう。万が一プレデターとか案山子男とかが飛び掛ってきて農薬を口にしている私の肉体を食べたとしたら,プレデターとか案山子男の体の中でさらに生態濃縮される。エイリアンもそうだしエイリアンのベイビーもそういうことになる。もちろん,コモドオオトカゲも。私の汚染された体のせいで,プレデターや案山子男やエイリアンやコモドオオトカゲに被害が及ぶことを考えても,やはり農薬の使用というのはいかがなものかと。
 私はベジタリアンじゃないのだけれど,ベジタリアンの料理本とかを読むのが好きで,先日読んでいたらマクロビオティックの考え方にたつと出汁は野菜でとるそうだ。皮や葉っぱとかそういう料理のメインじゃないところ,普段だったら廃棄するようなにんじんやタマネギの尻尾だとかしいたけのいしづきだとかそういうのを使って出汁を作るらしい。そこに記載されてあったのが「野菜丸ごと全部使うためには,やっぱり無農薬だとか作り手がはっきりしている野菜じゃないと使えない」ということ。その辺で安いからとかあんまり気にしないで買った野菜は駄目というか「コワイ」野菜なのか・・・でも,それ考えたら究極は自分の手で作った農作物だけしか信用ならぬということになる・・・。食の安全性って,どうなってるんだろうね。でもその安全性を危ういものにしたのは,「見た目」とかにこだわる消費者たるわれわれのせいだねきっと。

December 1, 2006

世界エイズDay

 今日は世界エイズDayです。あれこれ考えたこと書くべきことは沢山あるきがしますが,長文で言いたいことが薄れるのは本意ではないので,なるべく簡潔に。

 日本ではエイズ感染数が確実に増えてきています。薬剤エイズ問題などの深刻な悲しい状況もあります。10代20代の感染者数も増えてきています。その現状をもっと知って意識して欲しいと思います。家族,友人,恋人,隣人,知人,すべての人が幸せであるように。祈りをこめて。

December 5, 2006

何かに必死になったことはありますか?

 天才は一握りだとして,大抵の人は努力をしないと結果は出ないことになっている。みんなはどうなのかよくわからないのだけれど,私は,努力が苦手である。努力スイッチみたいなのがあって,それが入ると努力している感覚すら麻痺して何日でもそれをやり続ける。ところが。その努力スイッチというのは今までの人生の中で数回しか入ったことがない。いつも,妙にさめた自分がいて「努力してるって状態とは程遠いよ君」と言っている。努力スイッチが入ったときは,この「妙にさめた自分」がいないわけ。
 外側から見ると,「すごい努力してる」とか「まだまだ足りないよ」とか,いろんな評価がくだるのだけれど,自分自身の中でその努力スイッチが入った記憶はあるので,その状態になっていない限り,私は「必死になって努力している」という状態だとは自分のことを認識してあげられない。
 よく,体を鍛えている人だとか,何かで大成している人だとか,そういう人はものすごい努力をしているように見える。しかも,しばしば努力している感じ。体を鍛えている人とか仕事で上り詰める人とか,ものすごくストイックに努力する姿を目にすることがある。そういう人は努力スイッチを頻繁に入れることが出来るんだなぁ・・・,などと自分の尺度で考えてみたりする。ストイックさが足りないのかなぁ・・・などと玄米ご飯を食べたりしながら考えてみる。没頭する条件というのを分析してその状態に自分を追い込めばいいのかも??結局は他人と比べてどうだとか,外側の評価だとか,そういうこととはまったくかけ離れたところに究極の努力というのは存在するのだろうなぁ。スイッチ入ってるときそんなこと考えも及ばないしね。努力してないときは,他人と比べてどうだとか,外側の評価だとか,そういうのがやけに気になったりする。
 好きなことをしているときのことを考える。たとえば私は池波正太郎だとか北方謙三だとかの作品を時々読むのだけれど,前の日2時間ぐらいしか寝ていなくても,読み始めると先へ先へ読みたくなる欲望が強くてちっとも眠くならない。ところが,あまり好ましくないことをやらなきゃならないときは,前の日十分に睡眠をとっていたとしても,ほんの少ししか進まなくてもさっさと眠くなる。好き嫌いにかかわらず没頭できればいいのだが。。。逆を返すと,没頭できない,努力スイッチが入らないことは「あまり好ましくないことをやらないきゃならない」状況なのか??あれ?でも,努力をする状況ってのは大抵は「現状では不足」だから努力をするわけで好き・嫌いのカテゴリーでは分けることが出来ないのかも。われをも忘れて没頭して努力をする状況に没頭できればいいのか・・・うーん,ぐるぐるぐるぐる・・・虎になるほど(『山月記』ね)努力したい。とか,書いているうちは,まだ駄目ですが(苦笑
 

December 25, 2006

クリスマスライブ

 今日はクリスマスライブでした。いつものようにAkagi Cafe。杉山茂生さんと神村晃司さんと一緒でした。たまたま神楽坂のお友達のところに遊びにこられていた英語のネイティブの方や,韓国からのホームステイ中の女の子も来ていて,なかなか国際色豊かなお客様が沢山いらっしゃっていました。そしてそして今日の衣装はLuna-kimonoさんのラメ入りの黒の着物!すごく素敵な衣装を着させていただいて,きらきらきらきら!でした。着物大好きなので,嬉しかったなぁ・・・。皆様に素敵な夜を過ごしていただけたかな??
 メリークリスマス!!愛をこめて。

JB

 先ほど兄貴にあったらジェームスブラウンがなくなったことを聞いた。私の中ではすごい人,なので,すごく残念です。

December 28, 2006

常識が覆された夜

 知らなかった。音叉って,みんなA,つまりラの音を出すもんだと思ってた。うちにある音叉,なぜかCだ。それって,ありなの?

あの年の年末は

 あの年の年末は,どうにもこうにもやりきれない,切ない暮れであった。何年前のことだったろうか。もうかれこれ7年ほど経つのだろうか。心臓外科医としては多少名の通った人物であった伯父は,病院で倒れたときに自分の症状について説明をしてそのまま意識を失った。くしくも自分の専門である心臓が原因であった。「突発性大動脈乖離」大動脈という心臓にある血管に傷が付くと,高血圧の人はそこに圧力がかかると水風船のようにどんどん膨らんで破裂してしまうというもの。あっという間の出来事らしい。
 私はすでに意識のなくなった伯父に会いに行ったけれど,病院は駅から遠く,周りは無機質で人通りもない。年の瀬でさえぎるもののない道程は風ばかり吹いていた。なんと言えばよかったのか,会いに行ったところで何も出来ることはなかった。暗い廊下や久しぶりに会ういとこと病院特有の匂いと,人工心肺のエアーポンプの音が繰り返されるだけ。なんだか上滑りした言葉を二言三言掛けて,伯父のベッドの近くに行った。手に触れて,話しかけた。何を話したのかは覚えてない。口に出したのかも覚えていない。
 しばらくしたらいとこのだんなさんが,もう遅いから駅まで送ろうと言ってくれた。黙って車に乗ってそのまま帰った。見慣れない土地,なれない電車。ずいぶん遠くまで来てしまった気がした。実際,そうだった。伯父が大事にしていたふるいジャガーのことを思い出した。家に着くまで眠ってしまいたいと思った。
 家に帰ると母親がいた。伯父さんに会ってきた,といったら,そう,とだけ言った。彼女は彼女の一番上のお兄さんである伯父のことが大好きだったので,毎日毎日心が千切れるような思いで過ごしていたに違いない。
 人の上に死は実に平等に訪れる。遅かれ早かれ,私の両親にも,私の兄弟にも,私が愛するすべての友人や恋人にも,もちろん,私にも。加藤茶のように大動脈乖離でもちゃんと復帰できる人もいるし,手遅れになってしまって脳死した伯父のような人もいる。伯母はその後つらい決断をすることになるのだが,時間差はあるけれどその平等性に目を向けると,ほんの少しだけ救われる気がする。
 

December 30, 2006

ありがとうございました

 今年は,歌に始まり歌に終わったよい一年だったと思います。沢山の素敵なミュージシャンの皆様とご一緒することが出来て,本当に幸せだったと思います。来年も日々気持ちを新たに頑張ろうと思います。いつも支えてくれる両親,兄弟,友人たちに,また私のステージを聴きにきてくださるすべての皆様へ心からの感謝をこめて,皆様にとって来年もよい一年でありますように,お祈り申し上げます。
 個人的には3年暮らしたところを離れて新しい家に越したことがとても印象的でした。また祖母が亡くなったことで一つの時代が終わったような気がしました。沢山の方々と出会うことが出来ました。沢山のよい音を聞くことが出来ました。親友の息子が2歳になりました。実にいろんなことを学びました。美味しいコーヒーの淹れ方だとか,パンの焼き方だとか,ガーデニングだとか,コードの押さえ方だとか。なんというか,本気になれば出来ないことはないのだと思います。と考えると,出来ないことは本気でやってないことなのかもしれない。きゃー。また,気の置けない友人との会話がこれほどまでに心をリリースするものだと再度実感しました。私らしくある,ということは,傲慢でよい,ということではないということも実感したし,もっとよい人間になる可能性は,一応私にも残されているような気がしています。自分自身の生に対しての概念にコペルニクス的転回があったのですが,それはまだうまく表現できないかもしれない。
 すべてのことは継続の上に成り立つので,来年は劇的にどうこう,というわけではないかもしれないけれど,すべて愛と夢なのだと思います。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
 愛をこめて。

 

January 3, 2007

明けましておめでとうございます

 大晦日から3が日ずっと働いていたので,ようやく新年が来たような気分です。明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。去年に増して,愛に溢れる人になりたいです。すべての解決方法は「愛」で,自分を支えるのは「夢」だと思っています。
 ちなみに初夢は,私の親友の一人のきわちゃんが一服しながら,「最近どうよ?」と言っている夢でした。笑いました。ちなみに彼女の名誉のために言っておくけれど,きわちゃんはたばこを吸ったりはしない人です。久しぶりにきわちゃんに会いたくなりました。そうだなー一緒に温泉に行きたい。これを読んだら連絡ください。
 さて,大晦日から三が日何をしていたかというと,Akagi Cafeでコーヒー淹れてました。こういう新年の迎え方は,悪くないなぁと思いました。徹夜したり,ケーキを作ったり,あたふたといろんな作業をして,余裕がなかったのですが,新年を迎えられたお客様の笑顔を見ながら,あー幸せな一年の始まりだなぁと実感しました。ふとみると,カフェのチューリップの球根から芽が出始めていました。
 幸せなよい一年になりますように。愛をこめて。
 

January 8, 2007

いつも,これまでも,これからも

私は,私であり続ける。

いい人間になりたいと努力しているけれど
努力が足りない,心して生きなさい,と誰かが言っている

決して今までの私を消し去ろうとしているわけではなく
なぜならそれは空しい努力だし
これまでの私も,私であるからだ。

つまり,これまでの反省の上に今とこれからが成り立つのだと理解する

心して生きよう
この世に生を受けた意味があることを
わかってしまった今では。

January 11, 2007

丘の上の家

 私が生まれたのは海の近くの,丘の上に建つ家だった。南国ほどは暖かいとは言えないけれど,それでも北国ほどは寒くは無い。冬は池が凍るのを心待ちにし,なぜなら,スケートをしてみたかったからで,夢はかなわず乗った瞬間冷たい池に落ちた。夏は虫を取りに出かけるまでも無く虫のほうから寄ってきた。セミの羽化やカブトムシの蛹,玉虫の産卵に出会ったりして,毎日暮らしていた。二階の窓から遠くに打ち上げられる花火を見た。秋は銀杏の実を拾ってきて手がかぶれ,春は杏やタイサンボクの花を愛でた。網戸の向こうで風が寄り添い,いつの季節も遠くで灯台がチカリチカリと光っていた。
 私の,すべてがここで育った。引越しをする日の祖父の顔を忘れない。夏に遊びに行ったときに祖母が怪我をしたことも。長く入院していた父親が戻ってきたときのことも,いとこたちが休みになると遊びに来たことも。成長してからも時々丘の上の家に来ては二階の部屋から海を眺めていた。すべてがここにくればリセットされる気がしていた。
 この情報化社会の中で,一種隔離された空間で幼少期を過ごしたことは,私の精神構造に少なからず影響を残すのだけれど,いつか,戻れたらいいなと思い続けていた。祖母が昨年亡くなったことで,丘の上の家も売却されることになった。仕方のないことだ。ただ,すべてが決まったときに,ああ,あの家の二階から海を眺めることがなくなったのだと思った。
 思い出と切なさと感傷と寂寥感と。いろんなものがゆっくりと滲みだしている。すべては時間が解決するだろう。いくら後ろを振り返ったところで,私の進む道は前にしかないのだ。

January 14, 2007

アナログ万歳(注)愛の告白に限る。

 とある人から相談を受けた。本名を出されてどこぞのブログ上で誹謗中傷されているそうな。ここまでインターネットが普及しているというべきなのか,PCが簡単ポンで設定できて簡単に使えるというべきなのか,よくわからないが便利なご時勢ですから,ありとあらゆる人がインターネットにアクセスするわけです。携帯でもアクセスできるしね。まぁ,そこには今までなかった状況も作り出されるわけで,よい面も悪い面もあるわけです。
 あたしは法律面にはまったく詳しくないので,相談されてもよくわからなかったのだけれど,わからないと回答するのは簡単だけど,本人も悩んでいるようなので,調べてみた。本名を出してインターネットで誹謗中傷することは民事(損害賠償)でも刑事(名誉毀損,信用毀損,侮辱罪,営業妨害などなど)でもあつかうことのできる犯罪行為になりうるんだって。ほぅ。物事のポジティブなところだとかメリットだとかそういうのをみれば便利な世の中だなぁと思うけれど,ネガティブなところだとかデメリットというのはちゃんと用意されているのだなぁ・・・。
 PCなんて,昔は全部コマンドが用意されていて,それを理解してなかったらなんも動いてくれない代物だった。これは異形の水槽か?って感じだった。言語だのプログラムだの,甚だ頭の痛い作業が目白押しだったけどね。今はアプリケーションを使うのだったらプログラム言語なんて必要ない。線つないで電源入れればどこでもなんでもOKっす。あ,線もつながなくていいか・・・。学校ではコンピューターリタラシーの授業が結構低学年から入ってるはずだから,その技術の獲得だとか利便性だとかを教えるのと同時に,モラル面の教育もすべき。あー,でもモラルの教育云々を考えると,別に子供に限らない・・・か。
 新しい技術には新しいモラル。って,モラルだの道徳観だの,そういうのってやっぱり個々人に依存するか・・・。うーん,自分も気をつけよう。。。そう考えるとやっぱりアナログ一番,顔見て話そうぜ!ってことになるのかな。そうかも。知り合いとのメールのやり取りも,快くないときもあるし,誤解が生じることもあるし,電話ですらそうだもんなぁ・・・。アナログ万歳。あー,でも出来れば顔見て文句言われるよりも,愛の告白とかの方がいいです私は。

January 25, 2007

歌ってりゃはっぴー

 えー。率直な最近の感想です。日々いいことも悪いこともあるのですが,どう考えても解せないこととかあったりするけど,歌ってりゃはっぴーです。昔から気がついてたのに,認識したのは最近です。何がプラスだとか何がマイナスだとか,何がポジティブだとか何がネガティブだとか。何をどうした方がいいとか何をどうしない方がいいとか,何がいいとか悪いとか,何が美しいとか美しくないとか,何が好きだとか嫌いだとか。まぁ世の中は前述の二元論で語りつくせるというわけじゃないけれど,中庸もあるし,いろんな相互作用があるから,日々いろんなことを無い脳みそを回転させて考えなきゃならんのですが,一番シンプルなことは,歌ってりゃはっぴーだってことなのです。そういうシンプルなどう転んでも揺るがない自分の基準を知ったことが,はっぴーです。はっぴーっていう表現に問題はあるかもしれないけれど,単に幸せということだけじゃなくて,己であると,まだ己が存在すると感じるとか,自分の輪郭を保てるとか,救いであるとか,なんかいろんな意味合いにおいて,なんだけど。
 みんなの揺るがないはっぴーは,なんですか?

February 6, 2007

うーむ

 眠い。実家に続けて2日もいる。でも仕事をしている。ずっと仕事をしていて2時間ぐらいしか寝ていない。眠い。PCに向かいっぱなし、座りっぱなしで腰が痛い。ピアノを弾いて練習をしてても結局座っているので、さらに腰が痛い。そして良く食べてよく飲んでいる。あまり健康的だとはいいがたい感じである。
 人の気持ちの優しさとか愛情表現について考えた。やはりすべてはリンクしているのだ。結局優しい気持ちを持って外側に接するということは、相互作用的に考えてみても、自分のためになる。なんか自己中な表現だけれど、んー、要するに、地球は丸いってことだな。うん。ずっと向こうに歩いていったらちゃんと元のところに戻ってくるわけ。地球は丸いから。簡単なことなのに、どうしてみんな精神的天動説な人が多いんだろう。まぁ、時として私もそうなるときあるけどね。。。
 最近また感性の蓋が開きっぱなしになっちゃっている気がする。感性の蓋が開きっぱなしになると、いいものも悪いものもフィルタースルーで入り込んでくる。開きっぱなしのときの症状として、思考回路の回転速度が非常に緩くなる。言語野がうまく働かなくなる。カツゼツがいつもに増して悪くなる。歯の噛み合わせが悪くなる。まぁたいていいつもそれらの症状が出ていないわけじゃないので、単に増幅されるというかなんというか・・・(笑)単に睡眠不足で眠いだけかもね・・・ねよ。おやすみなさい。

M引越しセンター(改)

猫も好きです
犬も好きです
でも、カエルとウミウシはもーっと好きです。笑

 さて、実家にいるとTVを見る機会がある。BSが映るからわくわくするが、確実にヘンな電波が出てると思う。頭が痛くなる。がしかし、私は昔から「野生の王国」的テレビ番組やBBSのアッテンボローの番組みたいなのを愛してやまないので、その手の番組があるとついつい見てしまう。
 今赤道直下の国々の自然についてシリーズをやっていて、昨日おとといと見ていた。カメラワークの妙でもあるけれど、地球って、ほんと美しいなぁと感動した。もちろんカエルとかウミウシとか出てきて、ときめいちゃったわけですが。
 カエルに関しては、なんちゃらカビがカエルに寄生してカエルが絶滅するとか言われている。世の中からカエルがいなくなったら、とても悲しい。きっとその存在を偲んで世界のカエル図鑑(美しい写真付)とかバンバン発売されるに違いない。
 ウミウシに関してはその形の奇妙さだとか色の美しさとか数え切れないほどの種類がいることだとかすごく芸術的だと思うわけなんですが、海にもぐってウミウシを見つけると、かなり、一期一会的な出会いをすることになる。
 世の中にはまだ知らないすばらしいことがたくさんあるんだろうと思う。技術の進歩でそれを小さな画面やインターネットで目にするチャンスがあるわけで、それはそれで幸せだ。ところが、そのすばらしい自然が損なわれていることを考えると非常に胸が痛い。
 われわれには、もっと抜本的に、具体的に、効果のあるやり方で地球を守るすべはないのでしょうか?

February 10, 2007

あめゆじゅとてちてけんじゃ

 これ,前も書いたかな。書いたと思う。私は宮沢賢治がものすごく好きだ。玄関のドアにはアメニモマケズが貼ってあって,よく出掛けに眺めている。賢治の妹がなくなる間際の詩が「永訣の朝」である。今日は二胡奏者でありシンガーソングライターの芳晴さんのライブを聞いていて,この「永訣の朝」の話が出ていた。涙が出そうになった。かつて,何度も,何度も読み返して,この詩のとおめいさ,せつなさ,哀しさを噛み締めたものだ。
 こんな詩を読んでしまうと,全ての人に愛を持って接するべきだと深く思うし反省する。自分の虚栄や傲慢さやわがままや利己的な部分で人に迷惑を掛けることが沢山あるかと思うし,私はとっても心というか人間が小さいので,多くの人に対しては大抵無愛想である。今自分がとても大切にしている家族や友人やその他の人々がある日いきなりいなくなってしまうとしたら,後悔することは無いだろうか?明日,ちゃんと昨日あったように今が続いていくかどうかは,誰にもわからない。だからこそ,今ちゃんとしておかなければ駄目なんだなと,思う。
 そう考えさせる賢治の詩も,またそうだなぁー斉藤茂吉の歌もそうかもしれないけれど,そういうはたと今の自分のありようを反省させる力を持つものというのは,やっぱりすごいなと思う。時として文章じゃなくても,音楽や,絵や,何気ない人との会話の中でもそういう力を感じるときがある。

March 3, 2007

21のときに

 顔に消せないしみが出来た。そのころのあたしは毎週のように,海に潜りに行っていたので真っ黒に日焼けしていた。ある日のこと,潜り終えて帰ってきたら顔の皮がぼろぼろと剥け始めた。いつものことなのであー今年も顔の皮まで剥けたかと思っていたら一箇所だけ剥け残った。まぁ明日になれば取れるだろうと思った。取れなかった。数日たった。取れなかった。冬になり色が白く落ち着くと,余計そのしみの黒さが目立った。ちょうどそのころマックのノートが出たときで,スーツを着たキャリア風のイメージ画像を撮影した。出来上がった写真を見ていたら,一緒に見ていたバイト先のお姉さんが,「あ,しみ」と言った。そのとき初めて,これは日に焼けた後の焼け残りじゃないことが解った。しみ,だった。
 しばらくそのしみと格闘した。コンシーラーで隠してみたり,しみをとるなんちゃらをあれこれためしてみたり。いつの間にか無駄な努力は止めた。しみはいまだにあり,出来た当時とどこかしら変わったところもあるかもしれない。大きくなったかもしれないし,色が濃くなったかもしれない。鏡を眺めるごとに,そのしみも眺めるわけで,いつの間にか,そのしみは顔の一部になった。いとおしささえも感じるようになった。年をとるということはこういうことかな。自分に出来たしみすら愛せるようになる。悪くない,と思った。

March 8, 2007

不二家考

 横浜の小学校に通っていたころ,日之出町からスクールバスに乗っていた。今日之出町に仕事でいっても全くその記憶とリンクしなくて結構笑えるんだけど,駅前に不二家があった。正確に言うと今もある。今回の出来事で不二家も大変なことになっているけれど,先日友人と車で走っているときに不二家のファミレスに結構人が入っていて安心したりした。
 不二家に関して,別に特に思い入れは無いけれど,一つだけ忘れられない思い出がある。私が勝手に考える児童心理学的傾向からすると,学校と家が近いと忘れ物が多いのだけれど,私の場合近かろうと遠かろうと忘れ物が多い子供だった。学校までスクールバスがなければ1時間強かかるのに,どうしても出さなきゃいけないプリントとか学校に平気で忘れてきたりした。
 ある日のこと,理科のプリントを週明けに出さなきゃいけないことを思い出した。かこちゃんと話をしていてプリントがない,と土曜日の昼間に大騒ぎ。もうこの世の終わりぐらいの感覚ですよ。たかがプリントされどプリント。近くに同じ学校に通う子供など住んではおらず,焦りまくる娘。母,呆れ顔で一緒にとりにいこうかとしぶしぶ提案してくれる。娘,もう必死なので即決。土曜日の午後,学校に向かいましたとさ。
 遠かったねぇ。遠かった。そのときに母と日之出町の駅前の不二家に入ったわけです。今と変わらずホットケーキが好きだったようでパンケーキを頼んだら,赤いソースが一緒に。食べて無言な娘。母も一口。一応無言な娘をみて何か感じ取っていたらしいけれど,「これ,不思議な味がするね」と一言。同情からか本音からか解らないのだけれど,パンケーキのソースがなぞな味がしたらしい。今確かめに行きたい気持ちでいっぱいです。私の直感では,今のあたしの味覚からすると結構好みな味のソースなんじゃないかと思うわけ。でも数十年前のメニューがそのまま残っているとは思えず,それとは別に,ミルキーを見るたびに,不二家頑張れ,と同情するミルキー好きのあたし。
 不二家だけじゃなくて,なんていうか,全てのことは謙虚じゃなきゃ駄目なんだなぁとおもう。驕っちゃ絶対駄目なんだよね。丁寧さとか,とっても大切だと思う。人気だのブームだのなんて一時ですぐ消えるし,定着した評価があるからって,見てないからいいだろう,見えないからいいだろうって,そういうのは駄目なんだね。壁に耳あり障子に目あり。よく子供のころに怒られた「誰も見て無くても神様が見てるよ!」って。えーーーーかみさまぁ??って思うけどさ,案外そう考えていて正解なんじゃないかと不二家の行く末を心配しながら思ったりした。

March 19, 2007

大発見と何気ない一言

 なんと!頼りになる兄貴だと思っていた人が同じ学年でした。ひゃーはっはっは。あたし寄り道長すぎだなと笑
 また、それが発覚したときに同席していた女性とその後何となく話していたらすごく癒された。芯の健全な人だなぁと。誰かのそういうところに触れるとすごくパワーを貰える。
 深く感謝

 さて,深く感謝しつつ,昨日の出演者の忘れ物を届けに吉祥寺へ。チャチャハウスというすごいイカシタお店へ。楽しそうにライブをやっていましたよ。昨日とはまた少し変わってぐっとアダルトな感じで。うぅ~ん素敵。
 終わって忘れ物を届けてから,サムタイムへ。なんと!今日は師匠の清水秀子のライブでした。終わり15分だけ聞けましたが,いきなりの曲がI'm fool to want you.大好きな曲です。何度もあなたから離れようとしたのに,戻ってしまう私の心は,今回こそは離れなければ。でも・・・,という曲です。いろいろ考えさせられたなぁ。。。いつかは歌いたい曲です。そしてライブの終わった師匠とあまりに久しぶりの抱擁を交わしてパワーをもらいました。短い時間に的確なコメントをもらい,解らなかったら来な!と力強い言葉をいただいて,岐路に。帰りの電車の中で金曜日ライブでご一緒したドラムの小泉さんとばったり。つらつらと話をして地元について,今日一日の出来事について考えていた。
 結論。全ての物事は啓示に満ちている。みんなに感謝。愛をこめて。
 

March 21, 2007

予知能力とオヤジ

 鮭トバってなんて美味しいんだろう。らっきょってなんて美味しいんだろう。焼酎ってなんて美味しいんだろう。鮭トバとらっきょを肴に焼酎をちびちび飲んでいてふと,「こういうのを好むのがオヤジならば,われはオヤジか?」と疑問が持ち上がる。えー??ま,それを好むとオヤジと呼ばれるならば,オヤジでも善いかと思ったり。
 今日は不思議な一日だった。PCの上に備え付けてあるツッパリ棚が朝落ちてきた。その音で目を覚ました。その棚に水が置いてあったので,PCやばかったんじゃないだろうかと思ったら,大したことはない。でも,昨日ふと,この棚落ちたら困るな,と思っていた矢先だったので,もう少しまともな予知能力が働いていればこんなことにならなかったなと思った。
 で,まともな予知能力を養うためにはやっぱり家の中もこんなに汚かったら養われるものも養われない!と,朝早くから大掃除。机の周り,テーブルの上,寝室,いろんなものを片付けていろんな物を捨てた。洗濯をして掃除機をかけた。ハイビスカスが咲いていた。日が昇ってきたのでベランダの植物に水をやり,栄養剤もついでにあげて,外のイチゴちゃんのご機嫌を伺い,コーヒーを・・・あ,豆切れしてる・・・ガーーーーン。
 あれ,ちょっと待てよ,あ,あたし免許の更新に行ってない!今日行こう。そのために与えられた一日だったのか。そのついでに豆も買おう。そう思い立ってしばし練習をし,さて出かけようと駅に向かうと・・・2分前に人身事故が発生しまして,電車の運行を見合わせております・・・だって。駅員さんの話を聴くと,中央線も人身事故で止まっているそうな。にっちもさっちも。時計を見たら予定していた書き換えの場所の受付には間に合いそうに無かったので,家に帰る事にした。
 と,18日からパスモとスイカの相互利用が可能になっているからモバイルスイカで改札を通り抜けていたので,払い戻ししてください,と言ったら「無理です」と。ええええ?モバイルスイカは駄目なのぉぉぉぉ??いみないじゃーーーーーーん。なんか変な紙切れもらって泣く泣く帰りました。ちぇ。もちろん帰り道にはコーヒー豆を買いに行き,そこではあたしの目指していた豆は売っておらず,はぁーこれは家から出るなって事だったんだなぁ。
 つまり,予知能力は・・・ないらしい。とほほ。予知能力のないオヤジじゃ,ただのオヤジじゃん。ちぇ。

March 28, 2007

ゴリラvsフルーツイグアナ

 今朝起きたら,花粉症がひどい。まーよくもまぁ毎日毎日花粉症のネタが書けるなと思うぐらいだが,こうしている間も鼻水が勝手にたれてくる。柔らかティッシュのおかげで鼻の周りはむけずにすんでいるが,鼻をずっとかんでいるせいで,また頭痛がひどくなった。市販の花粉症のクスリを飲むと手足がしびれたり体温が下がって動けなくなったりすることも時々あるのでやっぱり耳鼻科にお世話になるかな・・・。
 今日はその鼻水,頭痛,体温低下,のオンパレードでして,それなのにおなかがすいてむしゃむしゃとフルーツを食べる。食べても食べても空腹感がなくならない。それを聞いた人が「ゴリラみたいだね」だそうで。おいおい,茄子の次はゴリラかよ。と思っていました。でも本当は茄子なんて可愛いもんじゃなくてかばかもしれない。実際のかばは結構かわいいが。どうせならフルーツイグアナ辺りがいい。って大して変わりがないか・・・。この空腹感がなくならないのも薬の副作用なのかな?と勝手に言い訳してみる。
 花粉症のクスリと頭痛薬を飲んで,鼻にティッシュつめたりしてなんとかかびたスーツをクリーニングに出したり仕事をしたりしていたのだが,もうこらえられなくなって布団に入った。暖かいというのに寒くてならん。一眠りした。寝ているのに体温が戻ってくるのがわかる。変温動物から恒温動物になってるみたいな実感。
 あれやこれやの電話でおきるともう夜中だ。作業の続きをしようと思ってPCの前にきたら,植木等さんが亡くなっていた。うちの虎さんは植木等の振る舞いと藤田真の見かけの人だったので,大好きだったので,なんだかすごくやりきれない思いになった。私という人間は,自分にリンクしている人や事柄に関してはすごく感情的に入り込む,すごく単純で解りやすい生き物だなと思った。地震の被災地の人たちはとっても大変な思いをしているのに,花粉症ごときでへこたれたりしている。ちょっと浅ましくてそんな自分に辟易した。でも,万人に対してちゃんと思いやりを持って接することが出来たり,多少のことではへこたれない強さがあれば今の私の状態ではないだろうし,マザーテレサやガンジーやTutuやキング牧師みたいになっているのかもしれないのだから,そう考えると私を私たらしめている要因の一つなのだなとしみじみ感じてしまったりする。
 それにしてもだ。インターネットニュースというのは一覧だけ見ると結構すごい。植木さんの訃報だけじゃなくて,「浴槽に女性死体」だとか「木星の8倍の巨大惑星を発見」だの「輪島の地震での液状化現象」とか。出来れば「木星の8倍の巨大惑星を発見」のロマンが溢れる感じが沢山がいい。

March 31, 2007

桜の咲くころ

 昨日とても暖かかったから,いろんなところで桜が満開になっただろう。桜の花を見ると,気が狂いそうになる。そんな花の勢いに負けてしまったのだろうか。あまりの花の美しさにそそのかされてしまったのだろうか。ここのところ人身事故が多い。今日も帰りに乗り換えようと思ったら電車が止まっていた。
 今日は昨日とうって変わって日が落ちてからぐんぐんと寒さが増してきて,最寄の駅についてからの帰路が非常に辛かった。春はいい季節なはずなのに,どうして悲しいことや辛いことが起こるんだろう。桜を見ると切なくなる。そんな気持ちはわからないでもない。桜は私の友人の記憶と直結しているから,どうにもやるせない気持ちになるが,でもどこかで,草木がのびのびとその枝葉を広げて成長する様を見たり,暖かい風を感じたりしてわくわくした気持ちになったりもする。
 出来うるならば,自分のペースで,自分の感じたように自然や世界や宇宙を感じ取れたらいいと思うし,自分のペースで自分のやり方で表現していきたいと思う。人はすごく強くて,かつ,すごく危うい。強靭で脆い。今までは,私は自分ひとりで生きているような感じだった。最近すごく自分がいろんな事柄とつながっていて融合していると感じるようになった。自己と自分の外側との線引きが難しくなってきた。そうなると,自分を切り離して消し去るという作業が非常に難しい気がする。存在を消そうと思うと,常に存在は全ての物事にリンクしているので自己を認識しない限り,存在はもともと消えてるから。最近ではその自己認識すら怪しくなってきていて,なんというか,自分が地面の隆起物みたいに感じることもある。
 説明しようとすればするほどどつぼにはまるので,この辺で。何を言いたかったかというと,命は自分のものであって,一人だと感じるかもしれないけれど,全自然的に,というか全宇宙的にというか,全てとリンクしていて実はそのリンクの延長上に生かされているんだと考えたら,命は一人のものではなくて,存在を消してしまう前に,目の前にある困難から別の形で逃れる方法を選んだらどうだろうか,ということを言いたかったんだけれど・・・。こんなことを言うのはおこがましいなと思い始めて,でも書いちゃったから,伝わる人に伝わったらいいなと。また別の機会にもう少しまともな形で書こうと思う。Love and Peace。

April 4, 2007

ゴーギャン

 プールに行ってガッツリ泳いでやろうと思ったら,雨が降っている。目標では3キロぐらい泳ぐつもりだったんだけどな。これはおよぎにいくな,ってことなのかな?それとも困難に負けずに頑張れということなのかな。そんなことを考えつつしばらく部屋にかけてあるゴーギャンのポスターを見ていた。タイーチの絵は昔どうも好きになれなかったんだけど,それはあまりに親近感を覚えるからかもしれないと思った。こののっぺりとした質感はいかにも湿度を感じるし,こちらを見ている黒髪の女性は,どこからみても私に似ている。いつかタヒチ行ってみよう。
 で,後ろに流れているのがエディージェファーソン。このオヤジ,いかしてますよ。エディーの前に聞いていたのがビルウィザーズ。この人はバッドボーイな雰囲気をかもし出している。夜遊びしたくなる気分です。夜通しだらだらと酒飲みながら踊り明かしたいような。なんか「いかしてる」とか「エロい」とか「きれてる」とかボキャブラリーが貧困ですね私は。
 そもそも,何で今日はガッツリ泳ぐかと思ったかというと,ストレスフルだ,と思ったからなんですね。人というのはすごく面白くて,満たされていても満たされていなくても自己のおかれた状況で勝手にストレスを感じ始める。最近ストレスフルで,と愚痴ってみて「あれ?なんでストレスフルなんだっけ?」あんまりストレス感じてないはずなんだけどな・・・とはたと気が付いて,自分が今ストレスに感じていることに関して考えてみた。ストレスじゃなくて,今今やらなきゃいけないことが山積なだけでした。さっさとやりゃいいわけですね。雨がやむまでとりあえずさっさとやることを片付けることにします。

April 6, 2007

更新される日々

 今日は随分早く起きてベランダの鉢植えを眺めていた。朝早く起きると街がまだ目覚めていないから,道路の喧騒が少ない。日の出直後の空はまるで伸びをしているようだ。今日はいい天気になる。見渡せばコンクリートだらけでまともな地面など少しも見えない東京の,しかもマンション?のベランダで,ささやかな栄養とささやかな水とささやかなお日様でこの鉢植えたちは頑張っているなぁと思った。この間親株から切り取って植えたイチゴの子株に花が咲いている。なんか,涙が出るほど感激する。
 人一人の力や発想ではなかなか前に進めなかったり生み出すことが出来ないこともある。歌もそう。ある朝目覚めたらホイットニーだのマライアだのノラだのそんな声が出ているわけはない。精神的なこと,からだ自体のこと,その日の体調,気温,湿度,そういうものが全て関係していて,歩みが見えずいらいらする。一日中からだを作り,精神を鍛え,歌を歌い,譜面を書き,音楽を聴き,あれこれ音楽のことを試行錯誤して,という状況には到底いられない。でも,この鉢植えたちもすごく限られた条件の中で花を咲かせたりする。全ての事柄は示唆に満ちている。ひょっとすると昨日ハイビスカスの花が咲き終わって落ちたことも,何かを示唆していたのだ。
 全て起こることは,全てにつながっていて,今日出遭う誰かも何かを示唆していて,今日口にする何かも示唆に満ちていて・・・そう考えると,私は慎重にならなければならない。目には明らかに見えないかもしれないけれど,何かが少しずつ変わっていて,昨日の私は今日の私ではなく,今日のあなたは昨日のあなたではない。でも生というのは瞬間瞬間の断片ではなくて,継続である(と感じさせる何かがある)から,昨日の私があって今日の私があるのだ。ということは,人生を無事継続させていくためには,リセットと継続とセンスが必要だということになる。つまり,昨日のことを引きずっていては今日の歩みは遅く重くなってしまうし,でも少なくともすごくベーシックなところでは昨日と同じことぐらいは続けていかなければならないし,何気なく過ごしていると気づきもしない全ての示唆とチャンスを感じ取るセンスが必要だ。
 コーヒーを飲もう。古くて新しい一日が始まるではないか。 
 

April 9, 2007

癒しというのは

 私は写真を撮る才能も写真を撮られる才能もないので,写真に関する世の中の人々の才能には驚くべきものがあると思っている。そのへんのヒトがパチリと撮っても案外いけてる写真になるではないか。
 昨日私の写真を撮ってくれたもとこさんのブログを眺めていた。疲れていたせいか,なんだかとても写真が美しくて涙が出た。何事にもヒトを癒すチカラは存在するんだなぁ。
 その後はもう今日は何もしまいと決めて引きこもっていた。しまいと決めても後から後からやらなきゃいけないこと,やるべきことがどんどん現れて,「何もしまい」と決めていたのに手を出してパソコンに向かったりしていたので雨が降り出すころにはせっかく癒された心がしなびてしまった。
 ベッドに腰掛けて雨の音を聞いていた。次第に大きくなり土砂降りの音になった。まるでスコールだと思った。思ったら屋久島か東南アジアに行きたくなった。

April 12, 2007

なんといわれようと

 ヒトって,不思議だ。良い印象悪い印象ポジティブな考え方ネガティブな考え方いろいろあるけれど,結局私は「ああ,みんなが幸せであればいいのに」と思う。もちろんなんというか愛情の濃度!的に私との距離によって思い入れは違うけれど。
 ローズマリーというハーブがあってすごく魅力的な匂いがする。知ってる人も多いだろうけれど。ベランダでぐんぐんと伸びているローズマリーの新芽を摘んでいて,ふと「ああ,みんなが幸せであればいいのに」って思った。揚げ足を取ったり人や自分を卑下したり。なんだかいろんなネガティブな感覚って世の中に溢れてる。疲れないのかな?愛情の範囲と方向性によってはすごく狭く,すごく広くなるけれど,すごく簡単なことだよね。ほんとは。ホンワカ優しい気持ちになってたら,愛情のリンクで結構世界は幸せになれるんじゃないか?なんて思っているあたしは能天気かな?でもさー,「愛は世界を救う!」とか言っちゃう人がいるわけだから,私の能天気さ加減もありだよね。あり。
 さてはて,歳を経るごとになんというか,思考が単純明快になっている気がする。「すき」「きらい」「いいかんじ」「よくないかんじ」「きもちいい」「きもちよくない」このあたり。あとは「難しい」「かんたん」とかね。「わかる」「わかんない」もあるか。
 この中で一番よくセンサーとして使うのが「いい感じ」「よくない感じ」かな。職業柄なのかどうかよくわからないが,ヒトと会話をしているといい感じとかよくない感じというのを「感じる」。それが会話の内容,だったり発話行為をしているヒトの体調なり気分なり,そういう部分だったりもするが。でも,この単純さ加減を許してくれる環境に身をおいているという幸せな状況ゆえ,かも。
 昨日私の深く信頼する雇い人と私が精神的兄と慕っているヒトと3人で話をしていたのだけれど,私があれこれ精神的に勝手好き放題感性を放出しても受け止めたり流したりしている二人のさまは非常に居心地よく,なんかこういう空間に身をおけることは幸せだと思った。その幸せを誰かに分けてあげたいと思って,カフェに行ってスタッフと話したりした。
 「ああ,みんなが幸せであればいいのに」こういう考え方ってすごくシンプルで,優しくて,好きだなぁ。

April 22, 2007

腰痛だってのに

 今日はどうしても休みが取りたかった。連日続くストレスでもう限界だ,と思ってしまったから。実際はそんなことないけど,そう認識しちゃったらもう駄目ね。それにKatrinから連絡があって個展をやっているのを知っていたのでどうしても行きたかったのだ。数年ぶりに西荻窪に下りる。大学院を出て以来なので何年ぶりだ?よくわからんが。バスに揺られて善福寺まで。バス停を降りると遊工房アートスペースがあった。おうちみたいなところ。そのまま踏み込むと「すみません靴は外で」と注意される。あ,すみません,といいながらスリッパに履き替えて入り込むと真っ黒な展示が何点か。今回の彼女のテーマは黒なんだそうな。今まではポートレートやカラーにこだわっていたそうだけれど,実際彼女の今までの作品をウェブで見せてもらうとその通りなんだけれど,今回は「黒い魔法使いのおばあさん」なんだって。
 後はカリグラフィー。ほーっとおもいながらそのブックレットになっている作品をめくると脇から「すみません,手袋をつけてください」と言われた。あらら,今日はなんだか注意されっぱなしだ。というか,最近タイミングが合わないことが多いな・・・なんだろう。とか思いながら作品を見て,Katrin本人からあれこれ説明を受けて,世間話をして,神楽坂にも遊びに来てくれと言って遊工房を後にした。
 駅まで歩いて帰ろうか,と思った瞬間,大学に入る間際のことを思い出した。すごく鮮明に,すごく懐かしく。あのときの私の感覚は,「何も期待せず,どうでもいい」という感じだった。知らない街,知らない人たち,なれない文系,なれない女子大。何もかも自分で選んだことだけど,「どうでも」よかった。今までそちらの道しか考えていなかった生物学を捨てて,どうでもよく選んだ道。
 でも,全て今思い起こすと「私らしい」と思う。選ぶべくして選んだと思うし,今ある私は,実に私らしい。今まであったこと,全て必要だったのだと実感する。そんな思いで歩を進める西荻の街は,少し懐かしくてとても新鮮だった。大学時代好きで何度か通ったアンティークショップを探して歩いた。あれ,ここは幼馴染が下宿していたところだと思って携帯で写真を撮って友達に送ってみた。で,結局お目当てのアンティークショップは見当たらず,いろんな店がなくなっていて,新しい店が出来ていて,女子大の前のペーパーバンは健在で,マスターの変わりに息子さんが働いていて,そこで煮詰まったコーヒーを飲んで,その後で女子大の中を散歩した。
 門番がいかがわしそうに見ていた。エリティンさんに似ていた門番さんはいなくなっていた。結構いろんな建物が変わっていて,「なにこの構造」とか思ったりもしたけれど,こじんまりとしていてぐるりと廻るのに30分は要らない小規模さがやっぱりよかった。日曜日の芝生は静かできっと昔は清楚だったんだろう女子大生のかつてありし姿みたいなのを妄想してみたりしてね。
 そこから吉祥寺にだらだらと歩いた。途中で道を間違えてよくわかんなくなってその辺のおねーさんに訊いたら方向はあっていた。よかったよかった。で,吉祥寺で看板につけるクリップライトを探してまわり,結局いい感じのださいのが見当たらず,その後カフェの食器を探してみたり,CDショップに入ったりした。
 相変わらず腰は痛くて,でも雨が降らなかったからいい散歩日和だった。相変わらず仕事の連絡は来て,心配事や考え事が沢山だったけれど,すごいところからリセットされた気がした。そうだな10数年分リセットされた気分がした。リセットというか,なんというか。でこぼこがならされたような感じかな。女子大にいたときはなんだか居心地の悪さとか馴染めなさとかそういうものを感じ続けたけれど,そういう違和感がなくなった。拒絶でも迎合でもなく,受け入れあうような・・・。そんな感じ。きっとあのころは自分を受け入れてあげられなかったんだろうなぁ。今は徐々に,受け入れてあげてる感じかな・・・。そうかもね。

May 20, 2007

ADSL⇒Bフレッツ

 某N社をプロバイダーとして選択して,パソコン通信時代から換算するともう10年以上使っている。実家のネットワークも自分で引いて,ダイアルアップ,ADSL,光とあれこれ対応して使ってきたのだけれど,今回のトラブルについてはほとほと,参りました。
 パソコン通信時代はユーザーによるフォーラムとかで訊いたりしてね,案外不器用だけど心の行き届いた感じがして好きだったんだけど。さて,いわゆる大手プロバイダーになってから,あまりN社とやり取りすることがなかったから,どんな状態になっているのかあまり気がつかなかった。
 この家に引越しするときに,どうせなら光にするかと思い立ったのだけれど,当時はこの建物が光に対応してなかったからADSLを選んだ。速い!とは思わなかったけれど,家で仕事をすることも多いのでまぁ不便は無かった。ただ,もう少し速さがあればいいなと感じていた。そこに,光がやってきたわけ。連日連夜(実際9時過ぎて夜中にまで営業に来て,すごいなぁと思っていたのだけれど)NTTや仲介業者がやってきて「光光」という。
 仲介会社に,じゃぁお願いするか,と一度お願いしたら,NTTの工事料がかかるという。あれ?確かプロバイダ経由で申し込むとこの工事料が無料だったはず・・・と対応の遅い仲介会社をさっさと断り,N社に連絡。「無料ですよーサポートもちゃんとします。」というので,長年の付き合いでもあるし,そっからのが便利でスムースだろう。と。そこから『ただより高いものは無い』状態に突入していくわけです。
 5月7日のこと。申し込んでから比較的早く切り替わることになった。嬉しいなぁー。その前にNTTからルーターが届く。箱も空けずにNTTの屋内工事の人を待つ。現れたおじさん作業をこなす。終了間際に「あれ,おかしいな」とつぶやく。「ん?」と思ったが「はい,つながりました,問題ないです」とさっさと帰る。
 家電はほとんど使わないので光電話だけにした。ぷちぷち途切れるがそんなに不便は無い。Webサイトの表示はそんなに体感速度に変化なし。む?と思って速度を調べるとあまりADSLとは変わらない数値。おかしいなぁとおもってあれこれ調べてみる。でも,素人でいじるわけにいかないようなので手をつけず。さて,つれづれと日記でも書くか・・・。だらだらと日々思うことを書く。

ぽちっとな。
投稿・・・


しーーーーん。

なんじゃそりゃ。サーバーが見つかりませんだと。ネットワークの調子でも悪いかサーバーが調子悪いのかな?まぁ仕事をしよう仕事を。あー今日も山のように打ち合わせのメールが届いておる。9割がたは返答要。へいへい,わかりましたよ。「クロヤギさんからお手紙書いたぁシロヤギさんたら読まずにたべたぁ」などと歌いながら返事を書く。

ぽちっとな。
送信・・・


しーーーーん。

なんじゃそりゃ。メールが送信できませんだと。メーラーの調子が悪いのか?設定がおかしいかな?N社の設定サイトに飛んであれこれ調べる。全部一旦消して設定を試みる。

ぽちっとな。
送信・・・


しーーーーん。

あれ?おかしい・・・。なんだこれは?症状を書き出してNTTとN社に連絡。その後,怒りの2週間の幕開けとなるわけです。

つづく。

怒りの二週間

 N社に連絡する。まず「うちのせいではない」といわれる。
1)設定がおかしいんじゃないですか?
⇒おいおい,設定教えてもらいながら作り直したりしてるだろうが?

2)メーラーがおかしいんじゃないですか?
⇒他のメーラーでも試したけど?

3)セキュリティーソフトの問題でしょう
⇒アンインストールまでして試したけど?

4)ルーターがおかしいんじゃないですか?
⇒ということでNTTに連絡をする。

5)NTTにN社からの対応を伝える
 まずはじめは電話の窓口でルーターの初期化のやり方を教えてもらった。ルーターの設定でフィルタリングをどこでかけているかもわかった。でも今回はいじっても変化が無いので関係ないようだ。そしたら窓口の女性が調べて連絡をします。といったけれど,再度かかってきた電話では「こちらではわかりかねる」そうで。故障窓口に連絡をして欲しいという。

6)NTTの故障窓口に連絡をする
 留守電になっていたけれど,すぐ折り返し連絡が来る。この対応をしてくださった方は,今回のトラブルの中で一番丁寧で親切で,何とかしてくれようとした。名前を書くと問題があるかもしれないけれど,何か会ったらこの人にみんな連絡すればいいと思うぐらい,本当に真摯に対応してくれた。
 この中でわかったことは,速度が出ていないのがおかしいな,ということ。ルーターの初期化や再起動などを試みるうち,まぁ真真普通の速度が出る。がしかし,問題のメールの送信が出来ないことブログなどの書き込みが出来ないことについての問題解決はみられなかった。なので,ルーターの問題じゃないかもしれないということになり,広帯域でつなぐ。広帯域でつなぐとルーターを介さないでN社の接続にそのままつながるわけです。それでも問題は解決されなかった。
 この時点で,あれ,ということはN社の接続自体が問題なのでは??ということでN社に再度連絡をとることにした。
7)再度N社に連絡したら,また要約すると「うちのせいではない」といわれる。
1)から6)までの繰り返し。今回はここに,
8)お宅のPCがおかしいんじゃないですか?が付け加えられる。
⇒ほかのPCを持ち込んで試しましたが同じ状態ですが・・・
 ちなみに,このやり取りは1度だけじゃないんだよね。電話でもメール問い合わせでも何度も1)⇒8)の同じ対応をされて,かなり怒り心頭。この時点で既に1週間経過。のらりくらりと自社のせいではないといい続けるN社にほんとがっかりした。大手プロバイダーになるとこんなもんなのね。少しでも「何とか解決しましょう!」という姿勢が見られたら,結果問題が解決しなくたって「うまくいかなかったけど頑張ってくれたんだからいいよ」と言えたのに。逃げ腰の姿勢に非常に不信感を覚える。結局何かがあったときにどんな取り組み方をするか,で人の印象は変わるのだなと思った。
 さて,この1)⇒8)までの繰り返しの中で,NTTは2度人を派遣してくれて,集合装置の点検もしてくれて,その度に接続速度はどんどん速くなったのを体感した。素晴らしい。光って使いこなせれば便利なのね。。。まぁ光にしようって何度も営業に来てたし,NTTも責任を感じていたのかもしれないけれど,N社よりは遥かに良い対応。NTTは問題の切り分けに協力してくれてPCも持ち込んで頑張ってくれた。仕事が出来なくて,外側からもつつかれ始め,そろそろもう限界だ,と思っていたところだったので,困りました,とNTTに言うと,んーーーーー最終手段としてIEの再インストールを試みてくださいという。そうでなければバックアップをとってOSの再インストールを,とのこと。
 先日から探しているOSの板がちっとも見当たらないので,IEの再インストールで試してみることにした。ついでに,nortonに連絡をしてこのような事例が無いかあれこれ訊いてみた。nortonのサイトは便利だね。チャットで相談が出来る。それでもって,nortonもすごい親切だった。
 IEの削除というのが出来ないので,SP2を削除,再インストールすることにしたんだけど,そしたら1次的に半日近くPCがおかしくなった。げげげ・・・どうしよう・・・と思っているとwindows updateが何度か起動して解決。ものすごいほっとした。実はバックアップ取れてないデータがいくつかあったので・・・。うーん。nortonの変なエラーも出なくなったし,後はメールの送信と書き込みの問題が解決されればOKなんだが・・・。  
 となるとさ,末端のユーザーとしては,逃げ腰の箇所に一番何か問題があって,隠してるんじゃないの??みたいな疑いを抱くわけです。しかもADSLから光にしてから私のようなトラブルは一度も報告されていない,とくるわけです。一度も,なんてありえない。絶対も,完璧もこの世に存在しない。
 N社に連絡を取る。また1)からの繰り返しの対応。「10年以上使っていて,これほどひどい対応をされたのは初めてです。快適に使っていたのに,ユーザーのことを大切に出来ないプロバイダーを信頼できなくなりました。問題の切り分けをするために人を派遣してください。」というと「アウトソーシング会社から連絡が明日の1030に行きます」という。
 次の日連絡を待っても12時を過ぎても連絡が来ない。N社に連絡をすると「1030から1230の間に連絡を入れるのが第一希望で,第2希望第3希望とお伺いしてありますから・・・」という「あの,第2も第3も訊かれてないし答えてもいません。」というとまたうみゃうみゃとごねる。これでもう私の中では,今回のトラブルはN社が原因だと決定しました。
 すぐ電話させますというので,あーぁ,と思って電話を切ると,すぐ電話があった。なにこれ。迅速に対応できるはずのところを後回しにするから問題が起こるんじゃん。がっかり。と思っているとN社のメールがしばらく使えなくなった。もーいーや。と思って外でしばらく仕事をしていた。

 今朝になってPCを開いてみると,2週間のやり取りが嘘のように,問題が全部解決されている。どこが原因だったかわからないまま。今からN社の人が来るのだが,問題は何一つ見てもらえないだろうな・・・。なんか,なんだったのあたしの2週間・・・。
 と,考えていたら,ふと,昨日聴いたライブのことを思い出した。しばらく4beatが好きじゃないんじゃないかとか,なんかあれこれ悩んでいたのだけれど,昨日の神村英男さん,杉山茂生さん,太田寛二さんのライブを聴いていて,ものすごく救われちゃったのね。太田寛二さんのthis is bebop的ピアノとか,神村さんのゆるい歌声とかフリューゲルとかミュートラッパとか,杉山さんのすごい歌心溢れるベースとか。聴いていてわくわくする。あー,あたしやっぱりジャズが好きなんだなって思えた夜だった。そう思っていたら,そうか,ネットがつながらないのは,救われない私の心の中に原因があったのかな。音楽に感謝。がんばろう。 

May 29, 2007

 珍しく朝一番から打ち合わせ。1本目は大好きなコーヒーに関すること。本当はバリスタをとりたいところだけれど,あれこれ手を広げると破綻するので今は我慢する。
 私は,コーヒーの啓蒙家になりたいわけです(笑)世界中の人に(ああ,また大げさな)コーヒーのことを知って欲しいわけです。そんな願いをこめて,1年前に思いついていたことがついに形になりそうなので,めちゃくちゃ嬉しいです。
 二本目の打ち合わせはランチミーティング。表参道にいったらかなりの人出でびっくりした。おしゃれ風味な人たちが沢山。大切な友人にお願い事をしに行ったのだけれど,そのお願い事をイメージしてもらうためにこれから私がやりたいことについて話をした。
 話をしていてお互いが,から回りをしていない,お世辞や表面的でない,相手の顔色を見てもいない,なんというか,自分の言いたいことがきちんと言えている感じがあって,その友人と話しているだけで癒されて整理されて明確になっていく自分の思考があった。すごくありがたかった。
 帰り道で図書館に寄りあれこれと資料を借り漁り,行きつけの花やに寄って大きい植木鉢を買った。家に着くと山のようにやらねばならないことが溜まっていて,齷齪と処理していたらメールが入った。マイルス番組をやっているよとのお知らせだった。
 その番組をぼーっと見ていて,ふと,ある道のような確信のようなものが見えた。日々起こることは全て必然で,それをあるべき姿に形作るのは,自分なんだと。私が今こうしてマイルスのテレビを見ていることも,山のような仕事が溜まっていてそれをモクモクとこなすことも,植木鉢を買ったことも,図書館に行って資料を探したことも,友人と打ち合わせたことも,コーヒーの打ち合わせをしたことも,必然で,それをちゃんと形作れるか否かは私自身に依存するわけ。
 つまり,なんというか,全て示唆に満ちていて,精神的に背筋が伸びていたらちゃんと前に進むということだ。

June 13, 2007

人の縁

 人の縁とは不思議なものだ。去年ひょんなことから出会った方から声をかけていただいて八月に北海道でライブをやることになった。去年の内にできればライブをと思っていたが、いつもの「思い描いたことが一年後に実現する」マイルール通り、出会ってから一年の時間を経てのライブである。
 よく「一人で生きている」ように見えると言われることがあるが、そんなことは全くなくて、実に様々な人に助けられ支えられてきたし今もそう。自分がどんな人間でありたいか、自分がどんな人間にはなりたくないか、それを取捨選択していくのは私自身だけれど、基本的に賢くないので、的確な選択が出来ている自信はない。そう考えると両親を始め、みんなよく見捨てずにいてくれたなぁと感謝感謝なのである。
 へらへらと生活してきたので、根本的にどうありたいのか、あまり考えずにきたかもしれない。最近それが漠然と見え始めた。そのきっかけになったのは、上記の北海道のライブに声をかけてもらったことだった。見かけや職業としてどうありたいということじゃなくて、もっとコアな部分ね。
 4月の終わりにミニアルバムを出せたことも、中身として賛否両論あるとは思うけれど、ひょんなことからアレンジャーの菊ちゃんと出会ったことが始まりだ。うむ、やっぱり人の縁とは不思議なものだ。
 ひょんなことから出会ったと書いたけれど沢山の道が既に提示されていて、私が「それ」を選んだからなんだけどね。そういう意味では偶然はありえない。みんな出会うべくして出会う人々と,なすべくして形になる音楽。
 そんな人の縁から出来上がったミニアルバムの発売記念ライブを7月13日にやります。赤城カフェで。チャージは1000円。みんな来てね。菊ちゃんはこのライブを最後にしばらく海外とかいううわさがある。ドントミスイットです。

 って、13日の金曜日ぢゃんぁぅ

啓示に満ちた日々

 奇跡的に五体満足で生まれてきたので,いや,五体満足で生まれてくることを奇跡的だと思うようになったというほうが正しいかな,五感を失ったら,と想像するだに怖い。五感が普通に機能しているかどうかという議論はおいといて,発生学的な観点から考えても,五感が少なくとも備わっているということについて,すごく感謝する。
 自分や身近な例で考えると,メニエルになると聴覚に,緑内障だと視覚に,ストレスで無味症になると味覚になんらかの影響が出る。自分が五体満足なので何を言っても偽善っぽいんだけど,わが身に起こりうることとして考えると,障害のあるヒトをどうもほおって置けなくなる。
 立て続けに視覚障害のある方に会った。私はありがたいことに視覚があるので,そのもっている視覚を代わりに役立てることに躊躇は無いが,私がそこまでご一緒します,と言ったことを彼らはどのように感じたのだろうか。中途半端に手を出すなら,初めから手を出さない方がいいのだろうか。
 彼らに会った直後にひどく自己嫌悪になり,自問自答していた。己の行為は,どこから来るものか,と。自己嫌悪の上塗りになるけれど,「自分の身に起こっていることだと想像するとやりきれないので,ほんの少しでも何かをしたかった」わけ。そこに「愛」はあったのかな。
 よくわからないけれど,「ああすればよかった(のにできなかった)」という状態にはなりたくない。たとえば「席を譲ればよかった」「誘導してあげればよかった」「優しくしてあげればよかった」「声をかけてあげたらよかった」あげつらうときりが無い。でも日々はそういうささやかな試しに満ちている。このときお前はどう行動するのか?という課題に満ちている。そう考えると,どこまで自分を投げ出せるのかという問いかけは日々常に身近にある。
 こういう視点で物事を考え始めると,私を含め世の中の大概が「自分本位」であることがわかる。私は自分本位だけれど計算高くない。というか,賢くないから計算高くなれないんだけど。「○○が欲しい」「○○して欲しい」「○○してくれて当然」「ここまでやったんだから○○してもらわないと」そんな計算,私は上手になりたくない。でも案外そういう計算で物事が成り立っていることも事実だ。
 あー。あれこれ考えていたら滅入ってきた。ねぇ,大切なのは愛なんだよ?しかもね,愛されることじゃなくて,愛すること,なんだよ。

June 17, 2007

久しぶりに実家へ

 ピアノの練習を終えて、そうであった父の日だ、と思い立って実家へ。ついたら二人で酒盛りしてたので、混ぜてもらいました。母の手作りの夕飯を3人で食べて、気がついたらワインを2本開けてた。
 兄貴たちは父の日のお祝いを2週間繰上げですでにやっていたらしく、上の兄貴からはわれわれが飲んだくれていたら電話がかかってきて、下の兄貴には遊びに来いと電話をかけたら、もう家でまったりしてるからまたね、といわれてしまった。
 父の日のプレゼントを散々考えたんだけどあまり思いつかなかったからチャップリンの映画を二本買って行きました。3人で見てたんだけど、一人減り二人減り(笑
 気がついたら両親は布団にもぐって寝ていました。ちょっとこういうの、幸せな光景。狭い家にあるミニコンポをふと見たら、母の日に私があげた私のミニアルバムがCDプレイヤーに入っていて、思わずうるっときてしまった。二人が聞くような趣味の音楽じゃないんだけどね・・・がんばって聞いてくれたのね。
 二人の寝顔を見ながら、後何回、こんなチャンスがあるのかな、なんて思った夜。

June 20, 2007

大股開き

 Q:どうして男の人は大股開きで電車のいすに座るんでしょう。

 大抵はA型らしくないが,いくつかA型っぽいところを発揮するときがある。たとえば,電車の隣に座る男性の脚が自分の脚に触れて体温を感じるような状況が非常に気になる,とか。他は駅の階段の手すりなどが汚い気がする,とか。ちなみに潔癖症でも何でもありません。気になり始めると,気になる気になる気になる気になる・・・ぐるぐるぐる,となるわけね。
 まぁ,その太ももの温感の件はこの時期特に気になるので,でかい図体をかなり無理な姿勢にしてよけたりしてみるのだが,こっちのそんな努力は感じてもらえないらしく,9割がたますます大股開きになる。時々嫌がらせ?とか思うときもあるし,だんだんいらいらしてきて「少しは閉じようよ」と言いたくなる時もある。
 女の人は大股開きで座っていたりすると「はしたない」とか言われるじゃないですか。まぁ女の人が大股開きで座ってて,パンツ見えてたりすると,そりゃ確かにあまり心地よくは無いですが,男の人は大股開きで座っていてもはしたなくないの?男の人は膝頭をくっつけろとまでは言いませんが,V字にせんでもパラレルぐらいにはしていただきたい。
 でも全員が全員大股開きというわけじゃないから,個人の特性なんでしょうが・・・。まぁあとは私の太ももがもう少し細ければ,問題ないのかもしれないが・・・これも個人の特性か(笑

June 22, 2007

最近気がついたこと

 歩く速度が人よりゆっくりになりました。昔は結構速かったが。日々,追い越されております。仕事柄今日もPCに向かっていますが,あまたが痛いです。雨が降っているせいかもしれません。肩が痛いです。50肩か?と言われましたが,まだ残念ながらいそじではありません。
 うちのゴーヤは沢山花芽をつけていますが,バルコニーは風が強いのでもしかしたら実が育たないかもしれません。ナスは,1番茄子だけじゃなくて,3番目ぐらいまでさっさととるほうがいいようです。

June 23, 2007

アイデンティティの確立について

 子供の社会で自殺だのいじめだの深刻になっているけれど,いまだ大人の社会でもいじめがある。どうして人をけなしたり傷つけたりすることでしかアイデンティティを保てないんだろうか?悪いけど,そんなアイデンティティは大したアイデンティティじゃない。
 子供には子供の社会があって,大人が立ち入ろうとしてもその社会に住んでいる当事者じゃないから,拒絶されたりする。あたしの記憶からすれば,でも本当は何とかして欲しいと思っている。だから,大人は,その子供を守るつもりがあれば徹底的に守らなければいけない。中途半端に手を差し伸べることは,かえってその子供から反感を抱かれることになるし,傷つけることになる。
 ウチの母親と随分大きくなってから話をしたときに,いじめられていたことを気がつかなかった,と言っていた。どうして言ってくれなかったの?と言われたけれど,言ったところで何とかなったの?何もなら無かったよ,と会話はそれで終わり。
大抵わが子がいじめられていることなど気付かんのだろう。
 いじめられているのだったら,学校になんて行かなくていいと思う。生徒の管理も出来ないような学校にどんな教育があると言うのだ。私も,学校に行かないという選択肢を早く思いつけばよかったなと今は思う。意固地になって学校に通い,ひたすら「強くなりたい」と思っていた。
 いじめの理由なんて,実にばかばかしいものだ。ばかばかしいことに深刻になっていることすらばかばかしい。そのくだらない悪循環から抜け出すのに必要なのは自分の強さと,学校の誰かの優しい強さ。
 いじめは,本当にくだらない。そんな陰湿なエネルギーを集団になってひとりにぶつけるのなら,いじめをしないという潔さを養うべきだ。そもそも,潔い大人が今の子供の近くにいないんじゃないのかな?何が大切なのか,みんな知ってんのかな?
 誰かから何かを奪うとか,誰かに寄りかかって生きるとか,誰かに何かを求め続けるとか,誰かを傷つけて自分のみを守るとか,生きていくってそんなんじゃない。清く正しく美しく,って言ってるんでもない。あたしが言いたいのは,生きる姿勢がまっすぐかどうかが大切だということ。自分自身に対して恥ないか,ってこと。背筋が伸びてるか,ってこと。
 いじめをする,いじめに加担する,ものすごく汚らしくて恥ずかしいことだ。半年ぐらい前,あたしの元生徒がいじめについて話してくれた。「いじめは嫌い。いじめをする人も嫌い。いじめられる方に原因があるというなら,ちゃんとその原因を本人に話すべき」と言ったのだけれど,みんな心が弱いですね。あたしの心の弱さとは質が違う。
 アイデンティティの確立は外側に求めるものではない。そんなことにも気がつかないひと,子供だけじゃなくて大人にも多いから,そんな大人に育てられた子供はかわいそうだけど外側にアイデンティティの確立を求めたりするのかも。
 ちなみに,あたしはアイデンティティの確立を外側に依存する人が結構嫌いです。もちろん,私だって一人で生きているわけじゃないから,いろんな人に支えられて助けられて生きているわけ。そのことに関しては非常に感謝しているし感謝してもし尽くせないほどだけれど,でも,支えられること,助けられることが目的になっちゃ,だれも支えてくれないし助けてくれない。欲しい欲しい星人にはなりたくない。
 だからさ,あれこれ書いてるけれど,つまるところ,愛なんだけどなぁ,みんなそんな単純なことに気がつかないの?まさかね。
 とかあれこれ書くけど,本当に言いたいことはなかなか表現しにくいね。

July 3, 2007

杏の香り

 電車や車で移動していると,四季の香りを忘れてしまう。やはり季節を感じるには,徒歩でないと駄目だ。最近家の周りを歩いてうろうろすることが多く,今まで気がつかなかった自然に目が行くことが多い。
 先日歩いていたら,車どおりの多い道の端にガクアジサイが咲いていた。普通のアジサイとは少し違ったこの花が,私はとても好きだ。「ほぅ」と思いながら歩いていると,どくだみが密生して花を付けていた。なんともいえない草いきれが,実際香ってもいないのにイメージされる。「へぇ」と思ってみていると,その辺りの草花の茎に泡状のものが見えた。これは懐かしい。泡の中に虫が住んでいるのだ。私が生まれた横須賀では,この虫が庭に沢山いた。へぇ,都内もまだまだこんな身近に懐かしい自然があるんだなぁ。
 今朝も歩いていたら,公園の傍に差し掛かった辺りでものすごく懐かしい香りがした。杏の香りだ。あれ,杏があるのかな?と思ってきょろきょろしたけれど,見つけられなかった。そういえばこの辺りで,梔子の香りもしたことがあるな。
 私が生まれた横須賀の家の庭には,我々孫が生まれたときの記念にと祖父母が植えた木があった。姉はカイドウ,上の兄はタイサンボク,下の兄はアンズ。私は・・・木ではなくて,フリージアの鉢植えだった(笑)そういった記念樹だけでなく,枇杷,柿,桃,栗,竜舌蘭,バラ,梔子,牡丹,ケヤキ,クヌギ,ヒイラギ,椿・・・沢山の木が生えていた。フキノトウが生えてきたり,アケビや木苺がなったりした。
 あの木々はどうなったんだろう。祖母が亡くなって,家も亡くなった。私はあの庭で四季を感じて生きていたのだ。そんなことすら忘れていた。地蜘蛛の巣を掘り返したり,ざくろの実を採って食べたり。庭石をひっくり返して蟻の巣を観察したり,時にはカナヘビの卵を見つけて孵化させたりした。あの朽ち果てた木の門から外に出ることが恐ろしく,一人ではどこにも行けないと思っていたのに。今はかの地に似た,高台で風に吹かれている。

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